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「貧困」について学んでみた。part1

~貧困問題について考えるようになった動機と2冊の本~ 


Ⅰ 僕が貧困問題について考えるようになった動機

僕が貧困問題について考えるようになったきっかけは2つある。

1つ目は、働いている飲食店がコロナで長期休業するようになり、自分の人生を含め、その他諸々「考える時間」ができたこと。

2つ目は、たまたま知り合いにグアテマラという国で貧困層の子供達の教育を課題としたソーシャルビジネスを立ち上げようと奮闘している女性がいて、その方とオンラインでお話できたことである。

もともと僕は飲食店で勤務する傍ら、こども食堂のボランティア活動もしており、いつかは食や貧困に関わる諸問題についての理解を深めなければならないという気持ちはずっとあった。
飲食業特有の長時間労働に少なからず追われつづけ、長い間余裕のない生活を送っていた自分に、考える時間を与えてくれたコロナの自粛期間にはある意味感謝している。

上述の女性の名は咲(さき)さんと言い、かつて青年海外協力隊でグアテマラの教育支援ボランティアを行い、そこで生活のために低賃金で働かせられ勉強をしたくても経済的な理由で進学を諦めなければならない子供たちの姿に胸を痛め、日本に帰国からも猶その体験が忘れられず、当時就いていた日本での教職の仕事を辞めて、今度は人生を賭けて現地と向き合うことを選び、再び単身でグアテマラへと乗り込んだのである。

その挑戦に対する思いや葛藤はこのブログで語られているので、興味のある方は読んでみてほしい。


咲さんとオンラインで話した内容は、いわゆる貧困問題についてではなく、主に「人生」だとか「幸せ」の価値観についての話だったが、それは僕にとってとても有意義なものだった。
僕は人生において「挑戦」というテーマをとても大切にしているが、同じ「挑戦者」として覚悟を決めてグアテマラに渡った彼女から発せられる言葉の数々はとても重く、異文化に住んでいるが故の価値観も垣間見えて、ハッとさせられるものが多かった。

中でも、彼女が世の中を良くしていくために必要だと語った、

「多く持った者は、少ない者に与えなければならない」

「世の中がよくならないのは、自分の目の前のゴミを拾わないから」

「think globaly, act localy」

「大きくならない会社」

などの概念は、すごく興味深く感じた。


Ⅱ 日本の子供の貧困

僕はまず、彼女も読んで衝撃を受けたという『子どもの貧困 未来へつなぐためにできることという本を読んでみた。


この本はいわゆるグアテマラのような南米や東南アジア、アフリカなどにみられる絶対的貧困ではなく、日本の相対的貧困からくる教育格差の問題を扱ったものである。
グアテマラの彼女もこの本を読んで、日本にもこんなに「貧困」が広がっているということを知ったのだという。

「相対的貧困」とは日本国内で起きている経済格差が生み出す貧困である。
一見、見なりはきちんとしていてお洒落な女の子も、実はお昼代100円で暮らしていたり、席がうしろで黒板が読めないのに眼鏡も買えない男の子がいる。また、親から虐待や育児放棄(ネグレクト)を受けて児童養護施設に入っている子供や、母子共々、ドメスティック・バイオレンス(DV)やワーキングプアの(働いているのに貧困率が高い)状況に陥っている家庭がたくさんある。

日本の貧困は何とかぎりぎり生活はできているが故に見えずらく、その裏では子供のために必死で働いて健康を害してしまうシングルマザーの方や、日本の少子化問題に貢献しているはずの子沢山の家庭が苦しみ、実に日本の子供の7人に1人が貧困(保護者1人+子供1人、年間173万円未満で暮らす生活)、ひとり親家庭の子供の2人に1人は貧困(50.8%)というデータが出ている。

さらに大学の研究から導かれるデータによって、「親の所得が高いと子供の学力も高く、逆に親の所得が低いと子供の学力も低い」という極めてはっきりとした関係性が成り立つことがわかり、更には「少ししか勉強しない高所得の家庭の子供のほうが、毎日長時間勉強する低所得の子供よりはるかに点数が高い」という事実がある。
つまり学び方(勉強の仕方)を知らないのだ。経済格差と教育格差は切っても切れないものなのだ。

僕は両親がどちらも公務員という比較的安定した家庭環境に育ったので、自分の能力如何に関わらず、ある程度の学歴までは保証されていたということが分かった。こういうことも知らずに、のほほんと大学生活を送っていた過去が恥ずかしい。結局大学卒業という学歴が今の仕事に役立つことはなかったが、そこで学んだことは今の自分を形成する大事な要素として残っており、大学に行かせてくれた両親にはとても感謝している。

最近ではこのnoteというプラットフォームでも、教育格差について当時高校生だった筆者が、自分の過去の体験をもって書いた文章が話題となり、バズっていたことは記憶に新しい。


『子どもの貧困 未来へつなぐためにできること』という本は、お金という経済資本のみならず、家庭がもつ文化資本や生活環境の違いが、埋めがたい差となって現れ、本人の努力では埋まらない教育格差の問題を如実に書き出している。また、これに対する政府の対策や教育分野への税金分配率に疑問を投げかけている。
著者の渡辺由美子さんはNPO法人キッズドアを立ち上げ、日本のすべての子供が夢と希望をもてる社会を目指し、ボランティアを主体とした教育の場をつくる素晴らしい活動を各地で繰り広げている。

そしてこの「経済格差が教育格差を生むという事実」の世界版が南北問題であり、グアテマラの教育格差なのである。


Ⅲ こども食堂について

①こども食堂とはこども食堂ではない

僕はグアテマラで働く咲さんの活動にも想いを馳せつつも、目の前のゴミを拾うことにした。

目の前のゴミとは、自分の目の前の課題という意味である。

僕は、当事者としてボランティア活動をしているこども食堂に対する理解をもっと深めなければと思いこの本を手に取った。

僕はこの本を読む前に過去2回、こども食堂についての記事を書いている。
実体験からくるこども食堂の問題点に関する考察なのだが、けっこう主観的なレポートなのであえて読む必要はないと思う。

簡単にまとめると、子ども食堂が本来届けるべき隠れた貧困家庭にサービスを届けられておらず、来客も常連化してしまっているのではないかという内容である。
しかしながら上記の本と出会って、こども食堂に対する考え方を改めさせられた。

というのも「こども食堂は貧困のこどもの為の食堂だという間違った認識」を改めさせられたのだ。
もちろんそういった役割もあるが、「多世代交流拠点」という役割を軸にした方が結果的により貧困対策に繋がりやすいことも分かった。
「多世代交流拠点」とは簡単に言えば、「子供からお年寄りまで自由に交流する場」のことだ。多世代で交流することによって、大人は子供に活力を貰い、子供は大人に生き方を学ぶ

筆者は子供食堂に5つの価値と役割を見出している。
①地域活性化
②子どもの貧困対策
③孤食対策
④子育て支援、虐待予防
⑤健康づくり

僕はこども食堂というものを、②の役割としてしか見ていなかった。
しかしながら、当事者の僕でさえそうなのだから、こども食堂は「子供しか行けない場所」だとか、「貧しい人が行く場所」といった偏見を持った人はまだまだ沢山いるに違いない。

もちろんこども食堂の役割や目的は、地域や食堂経営者によって様々で、セレブの住む街にもあるし、自治体と協力して貧困家庭だけに制限したこども食堂もある。
しかし全国に5000近くあるこども食堂の多くは、貧困家庭の子たちだけを相手にするわけではない「地域共生食堂」である。
もしくは、一緒に食卓を囲むことを通じてつくられた信頼関係を基礎に、家族のこと、学校のこと、進路のことといった子供の生活課題への対応(課題解決)を目指す「ケア付き食堂」だ。

こども食堂が社会の中でこういった役割を果たしているメリットがある。
それは前述したように、日本の貧困は何とかぎりぎり生活はできているが故に見えずらいという点に効果を発揮する。

つまりそれは、この本の中でも語られているように、「赤信号」ではなく、様々な事情を抱えた「黄色信号」の家庭をカバーできるという点だ。

赤信号の家庭は基本的に行政側が対応している場合が多く、「早めに相談」「遠慮なく」「躊躇せず」と呼び掛けてはいるものの、結果として、来た時にはとてもとても大変な状態になってしまっているという事態が日常的に起こっており、「なんでもっと早く来ないんだ」という声が出てくる。
それでも何度も「早く来い早く来い」と何十年と同じことを言い続けているのだ。

なぜそのような問題が起こるかというと、少なくとも日本人は「赤信号であることが恥ずかしい状態」と考えているからだろう。
周りの目もそのように見るきらいがある。
意地をはって病気が悪化してから病院に行くのと同じように、私達はまだ貧困なんかじゃない。もっと頑張れる。周りに貧乏だと馬鹿にされたくないと考え、そもそも努力では解決できない問題に対して努力で立ち向かっている状態だ。
しかし、僕はここで日本人の意識や文化的な問題を指摘したいのではなく、大切なのは、そのような「赤信号・黄色信号の人が青信号の顔をして行ける場所がある」ということの意義である。

かつて日本ではそのような役割を大家族・親戚といった血縁、近隣・地域といった地縁、会社における社縁などの「縁」が補っていた。しかし、近年では「無縁社会」という言葉が定着しているように、人と人との繋がりが希薄になってきている。
そんな中に広がってきたのが、新たな「縁」をつくる「こども食堂」なのだ。

僕が目次で「こども食堂はこども食堂ではない」といったのはこのような理由による。
「こども」という名をつけることによって「こどもの為の」というイメージが定着し、誰もが行ける場所ではなくなってしまうというデメリットがある。

しかし逆に「こども」という名をつけることによって地域全体が、お母さん方が、「こどもの為なら頑張ろう、支援しよう」というメリットもある。
それが「こども食堂」が民間単位で自然発生的に生まれた理由でもあり、ボランティア主体にもかかわらず継続できている仕組みだ。

本来「こどもの為だけじゃないこども食堂」のイメージを広げていくことも、これからの「こども食堂」の使命でもあると思う。

②コロナ禍のこども食堂

この本にこども食堂の現状を表す象徴的な言葉がある。

『こども食堂は、もともと繋がりが薄くなり「疎」になっていく地域の現状に抗って「密」な場をつくり出したが、コロナはその「密」を狙い撃ちにした。』

本当にその通りで、今、こども食堂の現場は踏ん張り時だ。

テイクアウト事業にシフトする食堂、やむを得ず休業する食堂、コロナ禍でさらに大変になる子供や家庭に向けて営業を継続する食堂。
一部で近隣からの批判を受けながらもそれぞれの食堂が出した答えは間違いでも絶対的な正解でもない。
紛れもなく自分の為ではない他人の為に作られた多くの「居場所」が、今まさに岐路に立たされ、現在進行形でコロナと闘っている。


次の記事はこうした実態をうけて、そもそもなぜ「貧困」が生まれるのかを考えてみた。 

Part2へつづく。

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