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事物への関心とルサンチマンについて

・人間の関心というものは、たえず無機物にむけられてきた。ひとはこどもの頃から、折れ釘や外れたボタンやうつくしい石などを大切にしまいこむ。長じてのちは、金や株券や外国の革命などに関心をそそられる。金貨や宝石というのはとりわけ人間的な生活や体温の最も冷淡な対極物におけるにもかかわらず、そこに人間的臭気・色彩をくわえることに、人間は連綿と傾倒してきた。
人間の生活というものには、煩雑な事物の収集が不可欠なのだ。しかし酷なのが、人ひとりよりも、その当人が集積し、愛で、あるいは使役した事物のほうが、当人よりも長生きすることを認めなければならないということだ。もちろん日々のなかで消耗におわる事物もたくさんあるけれども、人間はすくなくとも、事物の完結性に取り囲まれて生活し、じぶんが事物の真の完結性に達するところを見ずに死んでしまう他ないのだ。こうした性質が生じるのは、物としての人間が、石鹸か、マッチ棒か、あるいは栓抜きほどの価値にしかならないからだろう。死んだのちに、扇風機ほどのいっかどのものになり得た人間など、ひとりもいないのだ。

・人間の事物に対する関心というのは、時間の流動、その不可逆性から、常にじぶんを救い出そうとする欲求にすぎない。そのひとつのおおきな根拠となる習性が、ルサンチマンだ。ひとは死というものを言語的・体験的に認識しきってしまった。今日において、常に不死身の肉体を渇望している人間など、ほとんどいないだろう。だからこそ、もうひとつ次の段階の欲求がうまれたのだ。
ルサンチマンにおいて、負の感情を向けられる側の強者というものはみな、時間の不可逆性からある程度脱することができるという共通性を持っている。それは、死に対する部分的な猶予ともいえる。
ルサンチマンというのは、死という絶対者を認識したうえでの自らの名残りの欲求で、それは偶然性への渇望なのだ。

・人間は事物に慣れ親しみ、事物の運動と秩序のなかに、人間の本質を投影するようになった。そして無機物どころか、有機物にすら、生きている猫にすら、人間の引き起こす事件にすら、いや、人間そのものにすら、事物の属性を与えなくては安心できぬようになってしまった。事物の属性を即座に与えるという行為が事物に完結性の外観をもたらし、人間が恒久の観念と故意をごっちゃにしている、幸福の外観をもたらすからだろう。

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