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浪漫の騎士

分厚い板のカウンター席に座ると、どこからか大きなセントバーナードがやってきて、私の足元に寝そべった。
いや、本来そこがそいつの定位置で、私のほうがそのお膝元にお邪魔したのかもしれないが。
首に赤いバンダナを巻いているが、赤いからといってオスではないとも言い切れない。
老犬でないとも言えない。
もっさりとした動作と眠たげな瞳から、どうやら侵入者である私に敵意は抱いていないようだとわかった。

店の者も、常連らしい客も、誰一人として頓着していないところを見ると、どうやらここの住人らしい。
酒を出す店だから、ウイスキーの樽でも提げていてほしいと思ったのは、私の勝手な思い込みだ。
癒し、あるいは和み担当で、とりあえず充分。

そいつを蹴らないように注意しながら、運ばれてきたオールドパーのグラスを眺めた。
飲み物、おつまみ何でも均一500円。
今も昔も、アルコールにはけして強くない私は、たぶん氷が解けていくのを待っていた。
突然崩れ落ちる氷塊を見るのは、ぐらついていたカサブタが剥けるような快感がある。

あの店は、まだあるのだろうか。
いつか、偶然に通りかかったら、昼間はカフェをやっていたはずの扉が固く閉じられていた。
玄関脇のウッドデッキに無造作に置かれていた廃船のパーツが、打ち捨てられているかのようだった。
看板もなかったが、もとより店の名は憶えていない。

会社の上司と同僚に誘われて、4人でその店を訪ねたのは、もうかなり昔になる。
会社関係の付き合いは極力避けてきたのだが、そのとき誘いに応じる気になったのは、たぶんその店に入ってみたかったからだろう。
あるいは、私の好きな小雨模様だったせいか。
雨の日は、普段と違うことがしてみたくなる。

テーブル席は少ししかなく、あつらえたように端から4人分のカウンター席しか空いていなかった。
こんなときだけ、私は要領よく一番端っこの席をゲットできる才能と運に恵まれている。

ときおり、隣に座った同僚が私に相槌を求める。
私はおざなりに返事を返す。
上司と同僚は、こんなところに来てまで、仕事の話をしていた。
つまり、愚痴というやつ。

その数日前、私は、ここにいる上司の上司に食ってかかった。
私としては「忌憚のない意見を」と言われたから言ったのであって、けして批判や文句の意識はなかったのだけれど、仕分けをすれば間違いなく賞賛のほうには入らない類のものだった。

若い頃の私は、たぶん現場と管理者側の温度差を理解していなかった。
いや、理解はしていたけれど、納得できないものがあって、爆発を待つ火山のようにふつふつと煮えていたのだろう。
そこへ発言の機会を与えられたから、できるだけ冷静に論理立てて言ったつもりだった。
それでも噴火は噴火。

ときおり、今そこにいる上司が割って入ったのは、はらはらしていたからだろう。
私の言葉をとらえて「つまりこういうことだよね」と穏便な言い回しにすり替えた。
それは、かなりニュアンスの違うものだったが、私は訂正しなかった。
途中から、もう投げていた。
「忌憚のない意見を」と言った言葉を真に受けた自分が腹立たしかった。
上司は、初めから聞く気などなかったのだ。

出る杭は打たれない。
打つのは疲れる。
だから抜かれる。
そのほうが手っ取り早い。

クビにも異動にもならなかったが、居心地が悪くなったことだけは確かだった。
私はたぶん、空気の読めないやつ、だったのだろう。
いや、そうではなく、そういう人間になりたいと願っていた。
いつかなってやろうと、構えていたのだ。
それは幼いころから、周りの大人の顔色ばかり見ては、心を深読みし、先回りして手を打つ、打たねばならないという重圧の中で育ったから。

あとになって同僚が、自分もそう思うよ、上のやつら何にもわかっていないんだ、とかけてくれた言葉は、真意だったかなぐさめだったか、今もわからない。

カウンターでは、そのときの話が出ているようだ。
しきりに私に話しかけるのは、私の意見に賛成だと言っているらしい。
だけど、私は聞いていなかった。
足元のセントバーナードに注意しながら、高めのスツールゆえに地面に届かないつま先をぶらぶらさせて、戸外の雨の音に耳をそばだてていた。

でも、雨の音は聞こえない。
店は繁盛していて、他のお客の話し声も渦を巻いていた。
私は心の中で毒づいた。
「こんなところで言うなら、なぜその場で言ってくれなかった!」

音楽が変わって、チック・コリアのピアノが流れ出した。
リターン・トゥ・フォー・エバーの「Romantic Warrior 」の中の何か。
個々の曲名までは承知していない。

するとそれまで聴こえなかった雨音が、ベースの音に交じって聴こえてくるような気がした。
私は、心の中で足元のセントバーナードに話しかける。

「ねえ、あなたにも雨の音が聴こえるでしょう?」
彼または彼女は、物憂げに私を見上げて、バウとも言わずに、また目を閉じた。

ひとくち、口をつけただけのオールドパーが、その色をさらに薄めていく。
私はグラスに残った紅の痕跡を指でぬぐって、耳に入ってこない同僚の言葉にうなづき続ける。

20代のころの話だ。
しかしそれを機に、私は一人でジャズバーに入ることに臆しなくなった。
セントバーナードのおかげだ。

家で仕事をするようになってからは、都心の繁華街を歩くこともない。
その店があったあたりは、再開発されたと聞いた。

浪漫の騎士は、理不尽の波に抗いながら、ビルの間を駆けているのか。
その蹄の音を聴く者はいるか。


読んでいただきありがとうございますm(__)m