見出し画像

人生を均さない

人生を均したくない。
いいことと悪いことを相殺して、結果、たいしたことは何もなかったような人生はつまらない。

「子供の代わりにあなたが死ねばよかった」
そう言われた瞬間から、10数年、私は心が凍っていた。
喜怒哀楽というもののすべてがなかった。
きれいな花や風景を見ても、すこしも心が動かなかった。

実の父が最初に倒れたときも、悲しみと苦悩を演技しているような気さえした。
私は、この地球に生きながら、実は別の宇宙に棲んでいて、言葉も感情もまったく通じない生き物のようだった。
それでいいと思っていたし、それしか生きる道がなかった。
もしも、悲しみや怒りの感情があったら、私は自分か誰かを殺していただろう。

思いもかけぬことから、私の心は解凍された。
以来、私は、喜びや嬉しさもさることながら、怒ったり哀しんだりする負の感情さえも、存分に味わいたいと思っている。

そうでなければ、生きているのがもったいない。
心があるのに使わずに死んでいくのが惜しい。

私は人生を均さない。
心を均さない。
嬉しいことはうんと喜び、哀しいことには打ちひしがれる。
理不尽には激怒する。
それができることは、とっても幸せなことなのだ。

だから、人生を達観したような無の境地などには、まったく興味がない。
それは心安らかかもしれないが、私は、時化と凪を繰り返すシーソーのような日々を選ぶ。
たとえそれが苦しくても。

苦しいと感じられるのは、生きているからだ。
肉体だけでなく、心が生きて動いて波立っているからだ。
それでいいと思う。
それがいいと思う。
私は、人生を均さない。

したがって、最後には、プラスマイナスで相殺されますよ、人生の帳尻が合いますよ、などという、世間にありがちな慰めや励ましは、私にとって意味を持たない。
私は、そういう相殺や帳尻合わせを望んでいないし、実際、あるとも思っていない。

うんと恵まれただけの人もいるし、その逆の人生も、現実にはあるのだ。
子供時代の飢えた記憶も、一家心中の恐怖も、いつ自分が倒れるかと恐れつつ過ごしたダブルとトリプル介護の日々も、けして他のことで相殺されなどしない。

あれがあったから、まあいいや、などと、私は思わない。
ひとつの嬉しいことは、別の哀しいことの報酬でも埋め合わせでもない。
連動はしているが、帳尻合わせではない。

人生は、そんなに甘くない。
この苦しみを耐え忍べば、見返りに喜びがやってくる、とは、私は思わない。
ほしいおもちゃを買ってもらえるから勉強を頑張るというような頑張り方を、私はしない。
そうじゃない人生を、そうじゃない人生の母という人を、ずっと見てきたから。

因果応報とかいう考えも苦手だ。
自分の行いならまだしも、知りもしない前世とか先祖のとばっちりを、なんで受けなきゃならんのや、と思う。

苦しみも喜びも、それは、ひとつひとつ絶対的なものなのだ。
だからこそ、感じた喜びも幸せも、絶対的なものとして、私は大切にできる。
他人さまのそれも、大切にしなくては、と思う。
絶対的なものだから、比べることは愚かであると自分に言い聞かせることができる。

私は人生を均さない。
均したくない。
均した心で生きていても、本当に美しいものは見えない。


読んでいただきありがとうございますm(__)m