見出し画像

青信号の顔をして

仕事で子ども食堂の主催者の話をまとめたことがある。

少し前の数字だが、子供の貧困は政府の発表では13.5%、270万人だそうだ。
多くの子供たちは言わば青信号とも言えるが、270万人の子たちは実は2種類に分かれる。
黄信号の子と、赤信号の子。

貧困のほうではない8割の子たちは、基本的には問題のない青信号のはずなのだが、少子高齢化や人口減少、それからリスク意識の増大。
背景に多世代交流の機会を失ったり、異年齢集団での遊びの機会が減ったり、遊び場全体の減少を受けていて、健全育成には課題を持っている。
だから生きづらさのようなものがまん延している。
そうした子供たちには、居場所による交流が必要で、貧困でなくても大事。

しかし、貧困の子がより深刻な課題を抱えていることも間違いない。
そこも2つに分かれていて、270万人のうち260万人は、黄信号の子だと言われている。
この子たちは服も着ているし、学校も行っているし、飢えていない。
高校生ぐらいだったらスマホを持っている。

だから、貧困の子といわれる子のほとんどは、見ても分からない。
見て分からないけれども、課題としては、修学旅行に行けなかったり、進学に不安を抱えていたりする。

「こういう子たちの特徴は、自らは相談窓口に行かないです。
学校に相談室を作っても、この子たちはまず相談に行かないでしょう。
なぜなら、そういう場所はもっと大変な子が行くところだと思っているし、そういうところに行って『あなた、どうにもならないんだね』と言われると、心が折れてしまう。
ですから『そこに行ったら負けだ』くらいに思っている子が少なくないと思います。」

私は、昔、心が凍ってしまったとき、どこかに残っていた理性が「このままではダメだ」と警告を出して、一大決心をして心療内科を受診した。
しかし、カウンセリングを拒否したので、精神安定剤と入眠剤を処方されただけ。
それでも、そのことを知った夫や姑から言われた。
「嫁が精神科に出入りしていると知られたら、世間様に対して恥ずかしい。」

私はそのとき、意外なことに、その言葉にさほどショックを受けなかった。
自分の中でも「ああ、そうなんだ。そうだよね」と感じる部分があったから。
だから、誰にも相談せずに受診したけれど、自分で「精神科」ではなく「心療内科」と書いてあるクリニックを選んでいた。
それだけではない。
そこの看板には「内科・心療内科」と書いてあったのだ。
つまり、私がそこに入る姿を誰かが見つけても、内科か心療内科かわからない。

私の中に「自分はまだ赤信号ではない」と思いたい気持ちがあった。
さらに「黄信号にも見られたくない」という思いも、確かに存在したのだ。
だから。

黄信号の人が相談に行かないのが、実感としてよくわかる。
そういう人には、「青信号の顔をして」入れる場所が必要なのだ。

黄信号を放置していると赤信号になってしまう。

「では、その子たちはどこだったら行っているのかといったら、地域のお祭りには行っています。
公園には行っています。
なぜ公園に行っているかというと、公園に行っても「あいつ公園に行っていたぞ」とうわさにならないからです。
誰が行ってもいい場所だからです。
青信号の顔をして行けるからです。
青信号の顔をして行ける場所であれば、黄信号の子が来られます。
自分は課題を抱えて、もう自分では解決できないという赤信号の顔をして行かないといけない場所は、黄信号の子は行きません。
公園のような場所だからこそ黄信号の子が来ているのです。
しんどい人も、しんどいと言わずとも行ける。
SOSを出せなくても行ける。そういう場所になっているのではないかと思います。」

「だから『子ども食堂』が貧困な子が来るところというイメージを払拭したいのです」と、その人は言っていた。

自殺や犯罪があると、世間はこぞって、「SOSを出せるような社会にしよう」「助けてと言える社会にしよう」と言うが、それはかなり難しいと思うし、仮に何か救済機関ができたとしたら、今度は「助けを求めないほうが悪い」となってしまう。
出せなくていい、助けてと言えなくていいと、先に許されることのほうが、ずっと救いになる。

貧乏は恥ずかしいことではない、とか言うけれど、私は、ものすごく恥ずかしかった。
みんなが当たり前に持っているものが持てない、できないということはね。
結婚して、子供がいないということさえ、恥ずかしかった。
それは、もう理屈じゃなくて。

だから、居場所が必要なのだ。
青信号の顔をして行ける場所。
苦しいと訴えることは大事だが、訴えなくても済むところ。
何の説明も証明もなく「いてもいいんだ」と感じられるところ。


読んでいただきありがとうございますm(__)m