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昨日は休んだので、気になって始業前に仕事の状況をパトロールした。
問い合わせが来ていないかとか、不在時のメールやチャットのやり取りを確認。
特に着目する進展もなく、私だけでなく会社自体が暇のようだ。
だからこの時期には、多くの社員が交替で休暇をとっている。

急ぎの業務がないときは、ひたすらマニュアルを作っている。
「いついなくなってもいいように」という思いが、兄の死と自分の交通事故以来、さらに強くなっている。
生は常に死を意識したところにある。

若いころは、自分が抜けた穴の大きい仕事をしたいと思っていたが、いまは真逆で、抜けた穴はできる限り小さくすべく努力している。
それで、どこの会社で働いても、私は頼まれていない業務マニュアル、システムの操作マニュアルを作っては、退職時の置き土産にしている。
こうすべきではなく、あくまでも「私のやりかたはこう」という参考資料。

夏風邪がまだ治りきっていないせいか、労働意欲が湧かない。
集中もできないので、リモート勤務を午後の会議からにして、午前中は休むことにした。

体調の優れないときは、思考もネガティブになりがち。
でも、私は無理にテンションやモチベーションを上げようとはしない。
「ネガティブな人」とか「ポジティブな人」とかくくったりくくられたりするのも本意ではない。
そんな人はいない。

誰でも、自分の中に相反する要素を同居させていて、板の上に置いた球が傾きのあるほうに向かって転がるだけ。
黙っていても、板の端から落ちそうになれば、反射的に逆に板を傾ける。
そうやってバランスを取りながら生きている。

自分の感情にも「飽きる」ということがある。
ここの記事も、鬱々とした愚痴が続いたときには、次はテレビの話を書こうとか旅の想い出に浸ろうとかいう意識が働く。
でもそれは、無理にそうしようということではない。

漆黒と純白のあいだに無数のグレーゾーンがあるように、心の中の明暗を測る目盛りはない。
誰も誰かを「〇〇な人」などと定義づけることはできない。

ときに闇に臥し、やがて光を見出して起き上がり、スキップしたかと思うと、また立ち止まりうずくまる。
そうやって、多面体の心を転がしながら進んでいく。

いつか読んだ物語に、彫刻家が旅をしながら制作に挑む話があった。
彫刻家は、彫り進んでいる途中で、新しい発想が浮かび方針を変更する。
そして、彫り直す。
繰り返すと、材料の石はどんどん小さくなる。
小ささに合わせた新たなデザインを思いつく。
また彫り直す。

彫刻家は老いた。
自分の残り時間と行く道を眺める。
そして、ついに手のひらに収まるほど小さくなった石のかたちを整え、足元の穴を塞ぐ。
これでいい。
これで、次にここを歩く人が穴に躓くことはない。
彫刻家は満足して命を閉じる。

多面体の心を転がして、最後はそんなふうに見知らぬ誰かのために穴を埋められる人生でありたい。
そうであれば、ただ一面だけの「暗い人」や、ただいっときの「弱い人」の評価になんの意味があるだろうか。


きょうもまた、いつにもまして平和を祈る。
どうか誰もの歩く道に、無慈悲で冷酷な穴が穿たれることのないように。

読んでいただきありがとうございますm(__)m