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夜に爪を切らなければ良かった

「父ちゃん、死んでるって、、、、!!!!」

妹とあつ森の通信をしながら通話中、受話器越しから聞こえてきた、母親の震えた声。

???????

ちなみに現在の小谷家は、離婚して母は出ていっており、妹が彼氏と大阪府内で同棲中、父は弟と実家で2人暮らし。自営業のため、離婚してからも父と母は仕事のことでやり取りをしています。

妹、今実家帰ってるんか、
というか、今そんなことどうでもいいわ。

旦那のバイクの後ろに乗って約1時間半。
実家に到着すると、検察の方やお医者さん、知らない人がたくさん出入りしておりました。
一通り事が終わり、2:30頃に見た父の顔は、はっきり言って、「寝てるだけ」でした。

その日は、父の透析の日。
父は朝の6時に家を出て透析に行き、昼間に帰ってきていました。朝早すぎ。透析はちょっと遅れるとめっちゃ混むらしいです。

弟は父が家を出てから仕事へ行き、夜に帰宅。
リビングでは父はソファでリモコンを持って寝転んでおりました。
あまりに動かず、弟が声をかけても反応がなく、「死んでる?」と疑念を浮かべていたそうです。
怖い気持ちを押し殺し、腹を括って父に触れたときにはカチカチに固まって冷たくなっていて、思わず腰を抜かしたと言います。

膵炎や糖尿病に脳梗塞、心筋梗塞に大量出血で救急車、週3の透析と、よく生きていたなと思える病歴を持つ父。
これまでに何度も、本当に何度も、苦しい思いをして救急車で運ばれたのですが、最後は全く苦しんだ跡はひとつもなく、自宅で静かに眠るように亡くなりました。
1人で亡くなったので、死に目には勿論、誰も会えておりません。
私が最後に父に会ったのは今年の正月、最後に連絡をとったのは、4月でした。

来月、地元で演奏会をするのが決まっているため、そのお知らせと、忘却バッテリーおもろいから読んだ方がええで、という連絡を、近々しようかなと思っていたところでした。
間に合いませんでした。

64歳の誕生日をちょうど1ヶ月後に控え、父の日もせまっていたので、プレゼントどうしようかな、とも考えていたところでした。
その日を迎えることはありませんでした。

生前は、もう本当に手に負えない父親で、お陰様できっちりPTSD抱えてますが、いい思い出も、実は本当にたくさんありまして、人は一部分だけでは判断してはいけないということは、父親を通じて学んだような気がします。

外で喧嘩して相手の耳を引きちぎったり、
夫婦喧嘩で家の全てのガラスを割ったり(これはファーストファミリーエピソード)、
ちゃぶ台返しは定期的に起こるイベントでしたし、
弟との取っ組み合いの喧嘩も日常茶飯事、
私の大学入試2次試験前日にも酒を昼間から飲み弟と大喧嘩、

まあこれらは私の実家での暮らしのほんの一部分ですし、文字にしたところでピンと来ない方がほとんどだとは思うのですが、本当に激しくて、いや、本当に激しかったんですよ、半端じゃなかったです、伝わりますかね。はい。良いとこどこやねんってな。(笑)

父親としてありえない、というか普通に、人としてありえない行動は本当にたくさんあったんですけど。いやだって、他人の耳を引きちぎるとかしないでしょう、普通。そりゃ相手も喧嘩好きだったんでしょうけども。

それでも、私たちをたくさん遊びに連れってくれたし、たくさん褒めてもくれたし、子どもがやりたいことにはお金を惜しまず、音楽をすることをいつも応援してくれたし、それでいてお金に困ることもなかったし、自営業で従業員もいるし、私がこれまでの人生で出会った人の中で、親は1番尊敬する人だったんですよね。母親も含むんですけど。
冗談でも他人に「死ね」とは言わない人でしたし、他人の容姿を褒めることはあっても、いじったりすることはしない人でした。他人の耳は引きちぎるけど。

父はしょっちゅう病院にはお世話になってるけども、脳梗塞に心筋梗塞を乗り越えりゃ、次も同じような感じで救急車で運ばれて、「そろそろ御家族の方呼びましょうか」ってなって、話ができる状態かはわからんが、まだ息のある状態の父に会えると思ってたんですよ。
手を握って、「頑張れ!」なんて言いつつね。

酒は長らく辞めていたけど、アル中なので1回飲むと結局復活してしまっておりまして。そもそも透析してんのに、飲んでいい水分量越えてしもてるやろって感じやったんで、「おいおい頼むわほんまやめてくれ」って毎回ツッコミ入れてたし、それでも、なんだかんだでやばくなったら酒もまた辞めて、多分、2~3年後くらいとかに、そういう日がくると勝手に思ってたんですよ。
アホですよね!全然そんなことなかったですね!!

不思議なもんで、私は大学入学後下宿しだしてから、正月しか帰らなかったのに、去年は地元近くで仕事があったおかげで実家に帰る機会が例年より増えました。それだけでなく、遠出もしました。
妹も家を出てから数年経ちますが昨年の秋頃から父と競馬の話で大盛り上がりし、よく帰っておりました。
離婚して家を出ていった母親は、最近になって実家の様子をこっそり見に来て、掃除などをしていたようです。
弟は今の父親の仕事を一緒にやり出してちょうど1年が経つ頃でした。

駆けつけた際、実家の和室に飾っていた掛け軸が、龍に乗った観音様の絵に変わっていました。父の身体には観音様と龍の刺青が入ってるんですよ。そりゃもう、生前「登別温泉に行きたい」と言われたときは「全身入ってるのに無理では…?」となりましたね。
すみません、話逸れました。

更に、「この写真、遺影にしてや」と、現像した写真をスマホで撮影したもの見せた上に、実際の写真のある場所まで教えてくれていたりとか、
父が自分のスマホに弟へメッセージを残していたりとか、もうすぐ死ぬこと分かってたのかと思えることが所々にありました。

だけども。

父親が「身体もしんどいしはよ死にたいわ(笑)」と言いながらも、「あと2~3年は生きるで!」と言っていたのも事実で(2~3年とは言わずもうちょっと頑張れよは思うけど)(でも、古くからの友達とのLINEグループの名前が「長生きしよな」でちょっと笑いました。私もそんなグループLINEしたい)、

多分父親は今どこかで、「ええ!?死んでもーたんかいな!!」「思ったより早いがな!笑」とか言ってるのも想像がついてしまうというか、なんというか、
宗派的に言えば、すぐに極楽浄土へうまれるとも言いますし、これはただの自分の願いかもしれないんですけど、

自宅で口を閉ざして眠る父を見て、何かの間違いであってくれと願う気持ちや、しても仕方のない小さくてたくさんの後悔は尽きず、自分はただただ父の姿を目に焼きつけることしかできませんでした。

そして、「お金をかけた大きい葬儀はしてほしくない」と、健康だった時から常日頃のこしていた言葉ですが、いやいや、63歳て、、、

現役自営業土建屋の社長が亡くなってしもたら、どう考えても小さい会場は足りないし、最後に挨拶しときたい方なんかいっぱいおるやろう、って、
それで結局、通夜式も告別式もたくさんの人が来てくれて、仕事の人も友達も、花もいっぱい並んで、みんな涙を流してくれて、
あれだけ言ってたのに希望通りじゃなくてごめんって気持ちももちろんあるけども、父のことを大事に思う人達がたくさん集まって泣いてお別れを言いにきてくれて、父がこれまで注いできた「情」の数を知りました。

それでも、結婚式の聖歌隊でもないのに、なんで私が前でお辞儀してるんやという気持ちと、弟が喪主????という疑問というか違和感というかがずっとあって、気持ちの整理はなかなかつくものではなかったです。

そして、これは余談というか、
私の父親のお葬式ならではな出来事なんですが。

前のご家庭の奥さんや娘さんおふたりと、めちゃくちゃ盛り上がりました(爆)
しかも、実は自分は、2人の甥っ子がいるおばになっていたことは衝撃だったと共に、少しホッとしました。
「ほんま苦労したよな」と、全員で共感し、それぞれのエピソードトークに大爆笑してましたが、傍から見たらやばい連中だったかもしれません。私たちからすれば戦友です(笑)
あと、私は前のご家庭の長女の方に、顔が割と似てました。ウケる。(ウケない)

親亡くすのは、生きていれば必ず直面することではありますが、こんなに不思議で、実感がなく、なのにこんなに寂しいものなのかとしみじみ思います。

最後まで読んでくださった方、おられるかはわかりませんが(笑)、ありがとうございます。
また50年後くらいに父に会えるのを楽しみに、平凡で健康に、太すぎず細すぎず、一日を振り返った時に「いい一日だったな」と思えるような日がなるべくたくさんあるような人生を歩んでいきたいと思います🕊


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