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「傾聴」や「優しさ」の、その先

ままちゃんはぶっとびカウンセラー」というインスタグラムのアカウントが最近のわたしのお気に入りである。元保育士の心理カウンセラー「ままちゃん」さんと、ままちゃんの娘である「娘ちゃん」さんのお二方で、心理学を中心とした発信をされている。笑いの絶えない明るい空気感と、コメントに対する優しさに溢れた回答に癒されつつ学びを深められる、素敵なコンテンツだ。

月額400円でこのアカウントのサブスク会員になると、過去に配信された長めのライブ動画がアーカイブで観られる。その中の一つに「傾聴」をテーマにした動画があり、かなり驚かされた。というのも私は「話を聞く」と「傾聴」はほとんど同じ行動、ニアリーイコールだと思い込んでいたからである。

傾聴とは簡単に言うと、自分の聴く態度や相槌を意識することで、話している相手を会話の主人公に据えるテクニックのこと。結果「自分の話を真剣に聞いてもらえた」という快感を相手の脳が覚えることにより、自分の意見も相手に聞いて貰える可能性を高めることができるというものである。カウンセラーさんが訓練して身に着けるテクニックでもあり、ただ話を耳に入れる「話を聞く」とは分けて考えられる。(もしより詳しく知りたい方はぜひ、上記のままちゃんのアカウントを参考にしていただけたらと思う。)

この「傾聴」に近いコミュニケーションを普段からよくやっている人が、自分の身の回りに二人いる。一人は実の父で、もう一人は、よく行くカフェの女性店員さんだ。

母から聞くところによると、父は母の悩みをよく聞いているらしい。どんなに長い話も全部頷きながら聞き、共感の言葉を忘れない。だから「親身に話を聞いてもらえている」という感覚を、話す側に与えるのが上手いのだと思う。深い話をとことん寄り添って聞いてくれるタイプ。

一方、よく行くカフェの女性店員さんは、働いている時も、一緒にご飯に行くオフの時も、姿勢や目線から、人の話しをよく聞いているのが伝わってくる。しかしそれ以上にすごいと思うのは、安定して「返事が的確」なのだ。つまり、どんな短い会話だったとしても、話題の核になる部分に触れつつ、ポジティブな感想だけを言うのだ。あれ?言いたいことが伝わってないな、といった違和感が一切ない上に、否定された気分にもならない。もしネガティブな体験談を誰かが彼女にしたとしても「そうだったんですね〜!それは大変でしたね…」と労いの言葉が出る。その時の表情も声のトーンも穏やかで、共感もしていて、とはいえ相手に感情移入しすぎているわけでもない。口数は多くなくとも、しっかり相手を「会話の主人公」に据えたまま会話が続けられる。話す方がもっと話しかけたくなるような、フラットに聞き上手なタイプである。

もちろん「人の話を遮らない」とか「携帯やテレビを見ながら片手間に話を聞かない」は基本のマナーと言えるし、更に「人の話題を奪わない」「聞かれていないのに自分の意見やアドバイスを勝手に言わない」も重要なポイントだろう。「傾聴」と「話を聞く」の二つの中間は、幅広いグラデーションになっているとは思う。

傾聴を常にやろうとすると疲れる。例えば以前に付き合っていた恋人は、自身の不安やネガティブな話を親身になって聞いてもらいたがった。私にとってはその頻度が多すぎたと思う。週末を一緒に過ごす程度なら自分もエネルギーの調整ができたが、同棲してみると結構しんどいことになった。平日の夕食後など、相手の話を聞き続けるエネルギーが残っていなかった。彼が話し出すと、話の内容に関わらず、途中から明らかに上の空になっていたりしたらしい。私自身は、その時期の記憶自体があまりない。

愚痴を聞いても聞いても、相手の人生の問題や悩みは何一つ解決しないし、ネガティブ発言が減るわけでもない。宙吊りになって進めない列車の車輪を素手で回しているような、途方もない気持ちになっていたのは覚えている。「ここ数ヶ月間、まともに話を聞いてくれることがなくなってしんどかった」というのを理由の一つに同棲解消を提案された。全ての費用を折半していたので言いたいことはあったが、自分自身に集中するために、一旦これでよかったのだと思えた。

心理学のテクニックは、他人のためではなく、自分が生きやすくなるために実践していいのだとままちゃんは言っていた。傾聴を意識してすることが、パートナーシップを、自分にとってより心地良いものに形作れる「柔らかい武器」になり得るとは思ってもみなかった。相手への「優しさ」だけを理由にしただけの行動は、続かないこともある。経験のある方も多いのではないだろうか。

昔の恋人が私に期待したと思われる「パートナーとしての役割」はおそらく、共感しながら話を聞いてくれて、側にいると安心信頼できる、優しい人。私は「自分の心を武装しないまま」相手の話を聞いてしまっていたので、自分の時間や精神をすり減らし続けてしまったのかもしれない。自己犠牲はサステナブルではないのに。もしも「自分の意見を聞き入れてもらいやすくするため」という意図を持ち、その手段として傾聴を使えていたら。そうしたらそこまで疲弊しなかったかもしれないし、まともにできなかった話し合いも、もう少し違った形で進んだのかもしれない。今となってはわからないことだが。

人の話を「傾聴」できる人は、同時に「優しい」と思われやすいと思う。でも「いつも話を聞いてくれる優しい人」なだけでは、依存されたり、会話の主導権を失って、自分が疲弊することもあるだろう。その人との関係性をより自分にフィットしたものにする、という目的で傾聴を使う方が、まだ自分のエネルギーをコントロールできて無理が減る気がする。また「周りの人からモテたい」と願う人がいれば、それを理由に「傾聴」というテクニックを使って「優しい自分」を表現すれば、理想の自分の状態にも近づける。
そんなふうに「自分のため」という目的意識を持って、学んだことを実験しつづけられたら。そうしたら発見も多くて、日々が新鮮に感じるし、得した気分にもなるかも。私は今度「傾聴」から少し離れて「話を聞く」の方に少しシフトしたスタイルで会話をしてみようかと考えている。
学校を出てからの勉強も、こんなに面白いんだなあ。仕事ばかりの毎日がちょっとだけ楽しくなりそうな予感に、家路に向かう足どりが少し軽くなる。


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