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育児にまつわる「はじまり」と「おわり」

だいぶご無沙汰しております。
改めまして、イラストレーター・webライターの杉井亜希と申します。

昨年夏に第二子にあたる娘を出産し、当初は「2人目が保育園入園するまで、日々の想いをたくさんnoteに書き綴るんだ…!(きらきら)」なんて思っていたものの、産後1ヶ月程で仕事復帰した結果、仕事以外の創作物を生み出す気力と時間がまったくなくなってしまい、現在に至ります。(当たり前だ)

そして4月から娘も無事に第一志望の保育園に入園できたため、本日は久しぶりにしっかりnoteを書こうと張り切っているわけです。

そんな本日は『育児にまつわる「はじまり」と「おわり」』というテーマで、私が感じた自分なりの意見を取り止めもなく綴っていこうと思います。

では、お仕事や育児の忙しい日々のちょっとした暇つぶしに、よろしければどうぞご覧ください^^


育児にまつわる「はじまり」と「おわり」って?

産院で撮ってもらった娘のバースフォト

育児にはたくさんの「はじまり」と「おわり」がある。しかも、それはどれもこちらが意識する前に唐突にはじまって、唐突におわる。

ここ最近自分にあったわかりやすい例でいうと、授乳。(ここでの授乳は母乳のことを指す)

子どもが産まれたと同時に突然「とにもかくにも子どもに乳を差し出せ!」という怒涛の日々がはじまり、どんなに体調が悪くても、どんなに眠くても、子どもの命をつなぐために、母という生き物は我が子にひたすら乳を差し出す。(もちろん人によってはミルクの場合もあるけれど、それでも世の母たちは自分の眠気やしんどさは一旦後回しして子どもに授乳をするのだ)

が、それは予期せぬタイミングだったり、然るべきタイミングだったりで、唐突におわる。

私の場合、娘の保育園入園に向けて日中のミルク量を足していったところ、徐々に私の母乳が出なくなってしまったため、娘は生後9ヶ月であっけなくおっぱいを卒業した。

あの少しじめしめした春先の夜、お風呂上がりでまだ少し体がぽかぽかしている娘にあげたあのおっぱいが、私にとって人生最後の授乳となった。

このように、育児にまつわる「おわり」というのは、割と唐突に訪れる。

正直、私は授乳にしんどさを感じていた。毎日いくら食べてもお腹は24時間ずっと空いているし、外での授乳場所に困ったときも何回もあったし、自分が体調崩したときの授乳なんてそれはもう最悪だったし、夜だって本当は乳なんて出さずに布団かぶって朝までぐっすり寝ていたいし。

でも、それでも私は娘に最後のおっぱいをあげたあの夜、強烈な「寂しさ」を感じた。

育児の「おわり」というのは、それがどんなものであっても、親にとっては少し寂しくて切ないものなのだ。

きっと私には、そして現在育児中の親たちの多くには、これから先育児にまつわる「人生で初めての経験」がたくさん待っている。

しかし、それと同じ分だけ、「人生最後の経験」もたくさん重ねていかなければならない。

今までの「当たり前」が少しずつ終わっていって、その後に待ち受ける「初めての経験」がまた「当たり前」に変化していって、そしてそれがまた突然「おわり」を迎える。

私たち親は、育児にまつわる「はじまり」と「おわり」をひたすらに繰り返して、その度にちょっとセンチメンタルな気持ちになって、子どもとともに少しずつ成長していく生き物なのであろう。

第二子出産後、育児というかけがけのない時間を通して、そんな風に感じることが増えていった。

おわりに

私に抱っこされて寝る娘

ここ最近、娘は私に抱っこされているときやおんぶされているとき、私の髪の毛を凄まじい力で引っこ抜こうとする。

上の子はそんなことをしなかったので、これも私にとっては「初めの経験」である。正直、むちゃくちゃ痛い。思わず「やめて!」と叫ぶこともある。

でもきっと、この経験もいつか唐突に「おわり」を迎えるのであろう。

だから今は、出産・育児で弱り切った私のこの髪の毛を潔く娘に差し出そうと思う。

どんな痛く苦しい経験も、なぜか過ぎ去ってしまえば「あんな日々もあったね」と微笑ましい思い出に塗り替えられてしまう、それが「育児」というものだと思うから。



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