#1 甘ったれた人生と就農という逃げ道 <就農動機編>
「おれの名を言ってみろ!!」
――北斗の拳(武論尊・原哲夫)より
皆様、僕の名前を覚えていますでしょうか?
……。
申し訳ございません。
ジャギ様ならいざ知らず、胸に北斗七星の傷がない僕ごときが、たった一度の記事の投稿で名前を覚えてもらおうなどと考えるのは厚かましいことでしょう。
ましてや前回の記事では名前以外にまともな情報を載せていないのですから、印象に残らないのが道理というものです。
というわけで今回の記事では、「僕が就農を志した経緯」について、自己紹介を兼ねてお伝えしたいと思います。
▶プロフィール
名前:陽地郎
年齢:27歳
性別:男
職業:元 システムエンジニア 現 農業研修生
出身地:東北地方
趣味:読書、ゲーム、古着屋めぐり
特技:いつでもどこでも眠れること
田舎での少年時代
最近、都会に住んでいた人が地方に憧れて移住し、農業を営むという類の話をちらほら聞きますが、僕の場合は正反対で、「自然」というものはずっと身近なものでした。
まだ小学生になったばかりの頃でしょうか。やっと夜が明けたくらいの早朝、父に連れられ、近くの雑木林に向かったことがありました。
ひっそり佇む林の中にゆっくりと足を踏み入れ、時折、ぽきりぽきりと枝を鳴らしながら奥へと進んで行きます。
やがて父が「ここらへんだ」と言い、クヌギの木を蹴飛ばすと、頭上からぽろぽろと黒い物体が落ちてくるのです。その瞬間に僕の眠気は吹き飛び、「いた!」と目を輝かせてカブトムシのもとに駆け寄るのでした。
また、「夕方」という単語から連想する風景は、水平線に沈むサンセットではなく、両脇いっぱいに広がる稲穂の群れです。
マウンテンバイクに乗った僕は、さらさらと稲を揺らす秋風に情緒を感じる間もなく、舗装されたばかりの農道を爆走していきます。門限が近付いていたのです。頭の中は「母が夕飯を作り終える前に帰らないと!」という思いでいっぱいでした。
10代の大半を自然と近い距離で過ごし、あまりにも距離が近すぎたせいかもしれません。
中学生、高校生の僕は絶えず「東京に行きたい」という欲求に駆られていました。
東京に行って、何かしたいことがあったわけではないのです。けれど、東京に行けば、何か人生が好転するような、そんな予感めいたものがありました。
誤解しないで頂きたいのは、当時の生活に不満があったわけではないということです。不満があったわけではないのですが、思春期の田舎男子というものは、東京で一人暮らしを始めれば、劇的なイベントが降って訪れるものだと考えがちなのです。
都会での青年時代
寛容な両親は快く僕を東京へと送り出してくれました。
新宿駅南口の改札をくぐり抜けた先にそびえ立つビル、シックなカフェの看板、お洒落な洋服を着こなした人々。
新しい世界は全てがキラキラと輝いて見え、小さな優越感が胸に湧き起こります。
そうして多くの大学生と同じように、勉学半分、遊び半分のキャンパスライフが始まりました。
太陽が南の空を通る少し前に起き、講義をいくつか受けた後は隣駅のハンバーグレストランで接客に汗を流します。
徹夜でレポートを書いた次の日はサークルの先輩や後輩と月島でもんじゃを食べ、ゼミで会社法について議論をした日の夜は九州から上京してきた友達とチェーンの居酒屋でビールを頼み、とりあえず苦さに顔を歪ませる。
そんなありきたりな学生生活の中で僕がどっぷりとハマったものがありました。それは「映像制作」です。
友達の紹介で放送研究会に入ったはずが、その友達よりも活動に熱中してしまうという始末で、一眼レフカメラを片手に方々を飛び回り、素材が溜まったら今度は長時間PCと睨めっこをして、ショートムービーやミュージックビデオを作り続けることには全く飽きがきませんでした。
この頃から、大袈裟に言うと、ものの見方が変わったように感じます。
思考の全てがものづくり中心になりました。
映画なんかはもちろん、駅前の柱に貼ってある広告ポスターでさえも、作り手がどんな意図で作ったのかを考えるようになりました。
それほどまでに夢中になったものですから、就職という一大イベントが目前に迫った時、映像関係の仕事に就くという考えが頭に浮かばなかったわけではありません。
実際に選考を受け、一次面接を突破した企業もありました。
けれど、僕はその先に進むことを止めてしまいました。
周囲にはその理由を「激務らしいから」とか「趣味でもできるし」と言ってごまかしていました。
が、実際の理由はそうではありません。
考えてみてください。一歩街に出ればたくさんの人を見渡すことができます。そこで、さあ、あなたはそれらの人の心を一体どれくらい動かすことができますか?そもそも本当に動かすことができるのですか?そう問いかけられた時、素直にイエスと答えることができませんでした。
僕は自分の才能などという曖昧なものを信じることが到底できなかったのです。
就職
だからといって、システムエンジニアという職業を気まぐれで選んだわけではございません。
就職活動中、数多くの社会人と接する中で、情報技術がこれからますます社会を牽引していくであろうことは容易に想像ができました。
当時はAI革命やシンギュラリティといった言葉が世に出始めていた頃でもありましたので、勝ち馬に乗るというと語弊がありますが、IT業界に身を置くことは、今後の自分の人生にとって、利になるのではないかと考えたのです。
20代にもなると、理想と現実に折り合いを付けることはもうお手の物でしたから、映像関係の道を断念したことを引きずることもありませんでした。
そうでなくとも僕はどちらかというとあっけらかんとした性格でしたので、新しい技術を学び、それを生かしていくこれからの人生にわくわくしていました。
実際、最初はうまく働けていたと思います。
上司や常駐先の顧客との関係も良好でした。
毎朝定刻に起きて、堅苦しいスーツに身を包み、ドナドナと満員電車に揺られることに嫌気が差すこともありましたが、多くの人々が不快に感じながら順応していくように、僕もそれにならうことができました。
結構簡単なことです。両耳をイヤホンで塞ぎ、スマートフォンの有機ELディスプレイを注視していれば、時間はあっという間に過ぎていきます。
しかし、一つだけ誤算がありました。
僕の心は損得勘定だけでモチベーションを保てるほど大人ではなかったということです。
コロナ禍という変化
「仕事は楽しくなくちゃ!」と唱える人も、日々の仕事の全てが楽しいわけでないでしょう。時には辛いことも経験して、その先に充実感や達成感が生じるからこそ、その仕事は結果的に楽しかったと結論付けることができるのではないでしょうか。
僕の場合、そのどちらも感じることがなくなっていきました。仕事を通じた辛さも楽しさも、脳のフィルターは感知しなくなりました。
「ほならね、転職すればええじゃないですか」と人は言うかもしれません。
最もな意見です。ですが、僕が行動に移すことはありませんでした。理由はある種の信仰を信じていたからにほかありません。
それは「自分が変わらずとも世界の方で変わってくれるかもしれない」という淡い期待です。
正確にはこの考えをありのまま信じていたわけではありません。けれど、僕はこの可能性を消し去らないことによって、判断を先送りにしていたのです。
全ての思考プロセスは無意識のうちに行われていました。
あるいは気付かないフリをしていただけかもしれません。
いずれにせよ、気付かないフリをしていたことすらも、一瞬のうちに記憶の彼方へと溶けていっていました。
そうした中、文字通り、世界の方で大きな変化が起こりました。
申し上げておきたいのは、今も懸命に戦っている医療従事者の方々やコロナによって苦しんでいる方々を軽視するつもりは一切ございません。
ただ、事実として、僕の会社ではほとんどがリモートワークになり、それまでの生活が一変しました。
煩わしい朝の通勤を行うこともなく、ちょっとダウナーな日に無理に同僚と会話する必要もなく、休憩時間には音楽を流してコーヒーブレイクに興じることもできる。
皮肉なことに、ずっと家で仕事をするという働き方は僕が漠然と夢見ていたライフスタイルでもありました。
世界が変わっても人は変わらない
運命というものがもし擬人化したのなら、それはハープを携えた女神のような存在ではなく、コタツで寝転がって煎餅をぼりぼりとかじっている昭和の母ちゃんのような存在なのではないかと思います。
世界を変えることは、ブラウン管のチャンネルを変える時と同じくらい適当で、そこに映る人間に興味はないのかもしれません。それはそれで親しみやすい気もしますが。
在宅ワークになって、僕が理想としていた働き方をしていても、僕自身は何も変わりませんでした。
相変わらず仕事に楽しみは見出せず、向上心が湧き起こるわけでもなく、ピラミッドの石を積むように、タスクを無造作に消化していく毎日が過ぎ去ります。それでいて自分を変えようとする萌芽は表われません。
僕の好きなアーティストの曲に「お金もない、努力もしない 二十五を過ぎたら死ぬしかない」という歌詞があって、初めて聞いた時にとても共感したこと覚えています。
25歳の誕生日はもう過ぎてしまっていました。
ただ、この状況に少しずつ焦りを感じ始めている自分がいたのも事実でした。ですが、石を積む作業から逃げ出して一体どこに向かえばいいというのでしょう。野垂れ死ぬのがオチではありませんか。
最後通牒
ある日のことでした。上長から面談したいのでどこで調整してもらえないかと依頼がありました。客先常駐の多い僕の会社ではこれまでの不定期に面談を行うことがありました。
今回もその類ものと思っていたのですが、少々様子が異なるようでした。
会議室に入ると、上長だけではなく、見知らぬスーツ姿の男性が二人いました。彼らは労務部の社員でした。
「君はもしかしたらエンジニアに向いてないのではないか。これからのキャリアを考えてみてはどうでしょうか」
結論から言うと、こういった内容でした。
資格の取得率も低い、社内の有志の勉強会にも参加しない。そんな人間の居場所は残念ながら会社という組織にはございません。至極当然のことです。
自分でも薄々実感していたことではありました。でも実際に言葉にされると重みが違うというものです。
僕は情けないような、悲しいような、それでいて何とも感じていないような、救いようのない感情を抱いておりました。
そして、非常に勝手ながら、眠れない日が徐々に増えるようになりました。
特技をいつでもどこでも眠れることと自負しているのにも関わらずです。
お先が真っ暗で見えないのあれば、なにくそと奮起して、がむしゃらに走ることができたのでしょうか。
僕の場合、これから先の未来とか、人生というものを夜な夜な考えていると、目の前に広がっていたのは無味無臭の何もない真っ白な世界でした。どこをどう変えればいいのか。下手に触ったら壊れてしまうのではないか。圧倒的なその世界で僕は立ち尽くすことしかできませんでした。
カバンに入っていた荷物は無気力と無力感だけでした。
けれど、そんな地獄のようには見えない地獄に一本の蜘蛛の糸が垂れ下がっていたことをふと思い出したのです。
思いの外、長くなってしまったので、2回に分けさせて頂こうと思います。
次回 ⇒ 「#2 続・甘ったれた人生と就農という獣道 <就農動機編>」
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