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#アジア文芸ライブラリー ができるまで

〈アジア文芸ライブラリー〉という、海外文学の新たなシリーズを立ち上げます。アジアの同時代の文学作品を翻訳して、書籍と電子書籍で出版するシリーズです。わたくしがシリーズの企画立ち上げから、ほぼすべての作品の編集を担当しております。勤務先である春秋社より、2024年4月より刊行されます。



3月中旬に発表があってから、SNSでは多くの反応をいただきました。これまでも多くの出版社から、アジアの現代文学は数多く出版されてきましたし、ここへきてわざわざシリーズとして立ち上げることに、意味があるんだろうかとずっと思い悩んでいたのですが、多くの方からとても好意的なご意見をいただいて、本当に嬉しく思っています。

ここでは、どのような経緯と思いで〈アジア文芸ライブラリー〉を立ち上げるに至ったのか、書き綴っておこうと思います。編集の裏側に興味があるひと、これからシリーズを立ち上げるつもりの編集者の方々に参考になるといいなと思い、書き留めておきます(が、あまり参考にはならないと思います…)。

はじめはノリと勢いとヤケクソだった

実のところ、わたしが編集者としてのキャリアをはじめた当初から、アジア文学のシリーズを立ち上げたいという志があった訳ではありませんでした。

勤務先・春秋社のこと

2021年4月に春秋社に就職した当初は、海外文学の編集をすることになろうとは微塵も毫も露ほども思っておらず、大学や大学院で研究してきた宗教や社会についての本を作ろうと思っていたのです。そこにさまざまな偶然が重なって〈アジア文芸ライブラリー〉の企画が生まれました。

ひとつは勤務先である春秋社のこと。春秋社という出版社は、1918年に創業した105年の歴史がある版元で、創設者のひとりは植村宗一(直木三十五の筆名で有名)であるなど、じつは文芸書をかつては出しておりました。日本で最初のトルストイ全集や、夢野久作『ドグラ・マグラ』(これは松柏館名義)など歴史に残る名著も数々刊行しておりました。

現在では仏教書と音楽書、それから哲学などでわりと名の知れた版元ではあるものの、そういう歴史があるからか、わりとジャンルの垣根なくいろいろな企画を通せる職場ではあります。さすがにここ何十年も海外文学は出していなかったのですが、せっかくなら文芸書も復活させたいなぁと思っていました。

文芸は出していませんが、「アジアの本の会」という出版社の団体には入っていますし、仏教書やノンフィクションを中心に、インドやチベット、東南アジアの国々に関する書籍はいくも出していたので、その延長線上で企画を展開することは、可能と言えば可能でした。

また、わりとうちは会社として大きな方針があるわけではなく、むしろ編集者個人の努力が会社のブランドを作る、という考えがあったようなので、大きな反対もなくシリーズを進めることができました。出版業界に特殊なことですが、編集はいわゆる「会社員」というよりも作りたい本を出すために会社の机を借りているだけ、という考えをする編集者もいますからね……。

アルンダティ・ロイの本を出したかった

ふたつめは、ラインナップのひとつであるアルンダティ・ロイ『至上の幸福をつかさどる家』(Arundhati Roy, The Ministry of Utmost Happiness、2024年秋刊行予定)のこと。

アルンダティ・ロイの『小さきものたちの神(The God of Small Things)』は大学1年生の夏休みに読んで、ずっと好きな作品だったのですが、わたしが大学院生のときに、彼女の20年ぶりの作品が発表され、読んだときには大きな衝撃を受けました。その作品がこれです。

自分の英語力では読みこなせないこともあり、いつか日本語訳が出ないのかなと待ちわびていたのですが、なかなか出る気配がありませんでした。就職してから、そういえば、と思って調べていたら日本語の翻訳出版権は空いてあることが分かったのです。そのころにちょうどイベントで知り合ったのがインドで修行もした経験のある翻訳家のパロミタ友美さんで、本作を紹介したらぜひ翻訳したい、とおっしゃったのでじゃあやりましょう、となりました。それが2022年の春、わたしが春秋社に入社して約1年経った頃のことでした。

台湾文学がアツいらしい

みっつめに、愛聴しているラジオ番組の「荻上チキ・Session」台湾文学特集を聴き、書評家の倉本さおりさんと、台湾文学を日本に紹介するユニット「太台本屋」の方が出演されて近年の台湾文学を紹介されていました。それで調べてみたらいろいろと面白そうな小説がいくつか見つかって、営業部からも「これから台湾はアツいよー」と言われたので、じゃあやってみようかな、となったわけです。

Sessionの台湾文学特集は、以下から聴けます。

じゃ、シリーズにしちゃえばいいじゃん

インドと台湾が揃ったら、もうこれはアジアの文学としてシリーズにしちゃえばいいじゃん、というノリでひとりで勝手に盛り上がってしまい、いろいろとアジアの文学作品を調べていたら面白いのがたくさんあって、すっかりそのつもりになってしまいました。

それに加えて、じつはここだけの話なのですが(全世界に公開されていますけど)、人文書の企画書を出すのに嫌気が差していた、というのもあります。うちの企画会議(というかあらゆる会議)が不毛すぎて、やたらと博識でその知識をもとにマウントを取ってくる上司やら、“厳しいこと”をいって言い負かして黙らせたら勝ちだと思っているエライヒトやら、のまえに人文系の企画書を持っていっても不毛な(その企画を会社から出すべきなのかどうかという話にならない)議論ばかりが続いていたので辟易していました。しかし海外文学ならまあ内容や本国の評価や翻訳者・翻訳の質である程度のことが決まりますし、蘊蓄を開陳する上司には舌を出しながら聞き流せば済むので、わりと気が楽でした。

ひとことでまとめると、ノリとヤケクソではじめたシリーズ、ということになります。

アジアと文学への関心

世界を旅したこと

だからといって、勢いだけでシリーズを立ち上げたのではなく、このシリーズを立ち上げて世に出すべきだと確信するにいたるには、それまでわたしの人生のなかで醸成されてきた様々な経験や、問題意識があったからこの企画が生まれたのでした。

わたしは学生の頃から旅が好きでした。はじめて旅をしたのは16歳、高校2年の夏休みで、たまたまお金と時間があったから青春18切符で旅をしよう、と思い立って旅に出たのでした。

それから休みの折にはどこかへ旅に出るようにしていたし、無職時代もお金を貯めては旅に出る、という生活を続けていました。わたしの旅のスタイルは、できるだけ長く、ひとつの場所に留まる、というものでした。だから長期休暇が始まったら初日に(あるいは学期最後の授業のあとそのまま)空港に行って、休みが終わる日に帰ってくるという無茶なことをしていました。そして一度にひとつの国や地域にしか行かず、同じ場所にしばらく逗留して、現地の人と仲良くなったり、その場所でどんな人たちがどんな考えでどのように暮らしているのかをじっくり観察したりして過ごしていました。

そういう旅のスタイルをするなかで学んだことは、自分の見えているものごとがいかに小さくて、小さな枠の中でしかものごとを考えられていないのかということ、言い換えれば世の中にはたくさんの人がいて、たくさんの物の考え方があって、それぞれにことなった社会や文化のなかで生きているかということでした。それは、日本で報道をとおして聞こえてくる「独裁国家」や「共産主義」や「イスラーム教シーア派」などといった言葉だけでは理解できないし、その言葉でくくられる社会の下には、わたしたちと同じように——それでいて違ったスタイルで——生きているひとがいる、ということでした。

どんなに“情報”を仕入れても、それだけでは決して他者を理解することはできない。それどころかどんなに顔を合わせて対話を重ねても、人と人とが分かり合えないことだってある。それなのにどうして、他人のことを分かったつもりになれるのだろう。旅をするなかで、人を理解することの難しさ、それは思い返せば胸が詰まるような経験をいくつも重ねながら、身を以て学んできたのでした。

アジアへの関心

わたしは学部生の頃に文化人類学と歴史学のふたつを専攻していました(出身大学では専攻をふたつまで持つことができました。ダブルメジャーというやつです)。卒論を書いた人類学のゼミの他に、日本思想史と東アジア史のゼミにも参加しており、大学に入る前は鍼灸の専門学校で医学史や医学思想を学んだこともあって、ずっとアジアの歴史や文化に関心を持っていました。

アジア以外の国々にも関心はあったのですが、アジアは旅がしやすかったこともあってアジアに行くことが多かったです。歴史的にも(負の側面も多くありますが、それも直視すべき)つながりが深いですし、もちろん仏教をはじめとした文化的なつながりがあり、一方で共感するのが困難なほどわたしたちとは異なった部分もあります。そういうアジアの姿をもっと深く知りたいと、ずっと思っていました。

ところで、わたしと直接の知り合いの方は、わたしがいつも「アジアン」な服を着ていることをご存じだと思いますが、あれは別にゆったりした服が好きで装飾が好きなだけなので、あまりアジア文芸ライブラリーとは関係がありません。たぶん。

文学への想い

どんなにたくさんの知識や情報を重ねても人を理解することはできないけど、ひとびとがどのような暮らしの中で、なにを思考してきたのかを知ることで、理解へと近づくことができる、と思います。文学にはそのためのよすがが隠されている。

わたしが文学を信じる理由は、岩切正一郎さんの連載「文字の渚」がはじまったときにnoteに書いたし、別の場所にも書いた(近日公開予定)ので、今回は割愛します。それだけで、いくつも記事が書けてしまいますし。以下の記事を、ひとまずはお読みいただければ嬉しいです。

それから、もちろん連載「文字の渚」もぜひ。とくに第9回「本の引っ越し」は紙の本を愛する人に読んでもらいたいものです。

わたしたちは、分かり合えない。だから言葉が必要なのだと思います。

シリーズを始めると決めたら

まずはコンセプトを決める

さて、アジアの文学をシリーズにしよう、と決めました。こんなことに興味があるのは、編集部内ではわたしひとりしかいませんから、「アジア文芸ライブラリー編集部」なんてものを作るわけにもいかず、ひとりでハンドルするしかないわけです。まずは、シリーズの方針を立てることにしました。

まず、収録作品は同時代の作品にすることにしました。同じ時代を生きている人が、どう生き、何を考えているのかを知るための手がかりとして、文学作品を紹介したいと思ったからです。ひとまず2000年頃(ただし例外あり)を区切りとして、同時代ということにしました。

ジャンルの枠はできるだけ設けないことにしました。しかし、いま日本で海外文学を読む意味は、たんに面白い作品を読むだけじゃなくて、その向こうにある人間や社会を理解(しようと)することにある、という信念に基づき、「歴史」「文化」「社会」を織り込んだ作品であること、としました。しかしながらもちろん、そのいずれをも含まない作品というのは、ほぼないと思うので、ジャンルの区分はほぼない、ということになります。純文学もエンタメも、いま日本で読まれる意義があれば入れる。できれば詩や戯曲や批評やラノベも……と思っています(が、いまだに具体的な収録予定がないので情報をお待ちしております)。

こうした大まかな方針を決定して、企画書を書きました。それが今の「刊行の辞」のもとになったものです。長いですが、以下に引用します。

わたしたちの暮らすアジアのいままでとこれからを考えるために、春秋社では新たなシリーズ〈アジア文芸ライブラリー〉を立ち上げます。アジアの歴史・文化・社会をテーマとして、文学的に優れた作品を邦訳して刊行します。
これまでも多くの海外文学が日本語に訳され、出版されてきましたが、それらの多くが欧米の作品か、欧米で高く評価された作品です。アジア各地でそれぞれに培われてきた文学は、一部の人気ある地域のものを除けば、いまだ多くの優れた作品が日本の読者には知られていません。アジア文学という未知の沃野を切り拓き、地理的に近いだけでなく、文化的、あるいは歴史的にも深いつながり——侵略や対立の歴史も含めて——を持つ国々の人びとが、何を思い、どのような言葉で思考し、暮らしてきたのか、その轍をたどりたいと思います。
現代では遠く離れた国のことでも、分かりやすく手短にまとめられた知識が簡単に手に入るようになりました。氾濫する情報の波に手を伸ばせば、深い思考や慎重な吟味を経ずとも、簡単に他者や他国のことを理解したつもりになれます。世の中を白か黒かに分けて見るような、紋切り型で不寛容な言葉の羅列も、昨今は目に余ります。しかし、他者を理解することは、文化も歴史も異なる地域の人びとであればなお、容易なことではないはずです。
単純化された言葉や、誰かがすでに噛み砕いてくれた言葉では、複雑で御しがたい現実に向き合うことはできません。出来合いの言葉を使い捨てにするのではなく、自らの無知を自覚し、立ち止まって考えるために、今まさに文学の力が必要です。文学を通して他者への想像力を持ちつづけることで、平和の橋をつないでゆきたいと思います。

アジア文芸ライブラリー「刊行の辞」

収録作品を決める

さて、コンセプトが決まったら収録作品を選定します。とはいえわたしの語学力では集められる情報にも限りがありますから、いろいろな方に企画書を送り、これに合った作品を紹介してください、とお願いをしました。

まずは版権エージェント。大まかにいえば、海外の作品を日本に紹介し、版権契約の仲介をする職業です。過去のnoteでも紹介しております。

先述の太台本屋を除けば、欧米圏を中心としたネットワークでエージェントからの情報が入ってくるという偏りがあります。文学の市場が欧米を中心とした評価で作られてきたことへ一石を投じたい想いもあったので、エージェントには感謝しつつも、そこから入ってくる情報には頼り過ぎないようにしていました。

ではどうしたかというと、アジア圏の各言語の翻訳家や、諸地域の文学研究者に作品を紹介してもらうことです。すでに刊行された書籍の翻訳者の方や、大学でアジア圏の各地の文学を研究している方や団体に連絡を取り、こういうコンセプトでシリーズを立ち上げたいので協力していただけないか、とお願いしました。海外文学を出していない版元からの依頼で戸惑った方もいらっしゃったようですが、どなたも快く応じてくださいました。

デザインを考える

シリーズとして刊行することが決まってから、どのような造本・装釘で売り出すかということも随分と悩みました。出版不況と言われ、紙の本が売れないと言われるなかで、電子書籍にはない紙の本の付加価値として「ものとしての本の美しさ」は重要であると思います。そこで、収録作品の一冊一冊を美しい本として売っていくことは当然として、シリーズの全作品を揃えたくなるような造本にするというのと目標にしました。

具体的には、①一目見てシリーズと認識してもらえるように、シリーズでフォーマットを作る。 ②そのため、ロゴマークを作成し、表1(表面)と背に入れる ③シリーズで統一感を持たせつつも、表1はそれぞれの本の個性を出し、装画を描き下ろしてもらう ④並べて本棚に置いたときに映えるように、背のデザインは統一するが、タイトルごとに色を変える ⑤これからのアートシーンで活躍してゆくであろう若手〜中堅の画家・イラストレーターに装画を描いてもらう という方針を定めました。

そんなときに行きつけの古本屋さんで紹介していただいたのがデザイナーの佐野裕哉さんでした。戸田ツトムさんの元で修行され、人文書や詩集を中心に美しい本を数多く手掛けられた佐野さんがわたしと同年代であり、このシリーズには自分の同年代の読者に読んで貰いたいと思っていたので、ぜひとも佐野さんにお願いしよう、と思い至りました。

シリーズの造本について、細部はここでは書き切れないのでまた改めて書きたいと思いますが、佐野さんには装釘のみならず、花形活字を用いて宝相華をあしらったロゴのデザインや、上品で見やすいパンフレットのデザインを含む、シリーズ全体のデザイン面でのディレクションをしていただきました。

佐野さんの仕事は妥協を見せず、こちらが疲れてしまってもういいんじゃないの、と思ったときも根気強く最後まで美しい本を作るための努力を重ねてくださって、その姿勢に学ぶところが多くありました。シリーズ第一作の『花と夢』の装画をどうするか、決めるまでに随分と時間が掛かったのですが、最終的に息を呑むような美しさの本が出来上がったのも佐野さんのおかげです。

『花と夢』書影 装釘:佐野裕哉/装画:荻原美里

いよいよ刊行開始…

『花と夢』の見本が出たのが4月5日。シリーズの構想から2年ほどの歳月を掛けて、ようやくここまできたな、と思うと涙が出てきて止まりませんでした。今後、どんな編集者人生を歩むにしろ、これが自分の出発点としてずっと記憶されるであろう、と確信しました。

そもそも経験豊富とはいえない、それどころか未熟な編集者であるわたしに、いろいろな方が根気強く付き合ってくださったおかげでここまでたどり着けました。入社一年ほどの頼りない編集者が、熱意と勢いだけで書いたメールに、たくさんの方が真剣かつ丁寧に反応してくださり、アジア各地の文学を紹介してくださったことから、このシリーズがはじまりました。端から見ていると危なっかしいことばかりだっただろうと思いますが、翻訳者の方の多くが人生の先輩かつ出版界の先輩であり、温かく見守ってくださいましたし、わたしも安心して甘えさせてもらうことができました。本当に感謝のことばもありません。

ほぼひとりで企画を進めており、先輩に助言を求めることはあったものの、編集部内では孤軍奮闘でした。シリーズの立ち上げになにをすれば良いのかもわからず、試行錯誤しながらの2年間は結構孤独でつらかったのですが、思い返せば翻訳者や協力者の方々、エージェントの皆さま、弊社営業部や製作部、知己の著訳者の方々、取引先の皆さん、デザイナーやイラストレーターの皆さんなど、多くの人に助力や助言、励ましをいただいたから、なんとか刊行にこぎ着けました。

シリーズの情報解禁日が3月11日でした。前もってその日の朝10時にTwitter/Xで告知をすると決めていたのですが、リツイート数も30くらいで終わったらどうしようかな、滑ったら退職願を出すしかないかな、などと前日まで気が気でなく、本当に胃が痛かったのですが、たくさんの方々が反応してくださいました。書店さんがフェアを組んでくれたり、刊行記念イベントを企画してくださったり、サイン本を販売してくださったり、メディアに取材していただいたりと、予想以上に盛り上げてくださって、出だしは予想以上に快調です。とりあえずしばらくは、会社を辞めずに済みました(たぶん)。

文学が滅びることはありません。でも、それが一部のお金と時間に余裕のある人だけのための娯楽にならないためには、読者が読むという行為を通して、読書のバトンを周りの人に、そして次の世代に受け渡していくことが必要です。本が売れなくなってしまえば市場は縮小して、本の値段は上がって入手が難しくなります。だから興味を持たれた方は、ぜひお近くの書店でお求めいただくか、居住地の図書館にリクエストしてお読みください。そしてぜひ、電車内や喫茶店など、公共のスペースであなたが読書している姿を、周りの人に見せてあげてください。

↑シリーズ第一作『花と夢』の編集の裏側についても書きましたのでどうぞ。

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