見出し画像

へたくそなタコさんウィンナー弁当をつくった中学生の兄に、泣いて怒った日。

今回のnoteは夏休み特別編。会社からの了承を得て、AsMama広報担当「私」のプライベートな想いを綴ります。

私の母は、ある日、帰ってこなかった。中学生の兄と小学生の私は、きっと買い物でもしてるんでしょ、と家で話をしていた。携帯電話なんてない時代だ。不安がよぎりながらも、兄と私はじっと家で待っていた。

朧げに覚えているのは、病院からの電話を兄が受けたこと。兄が父の会社に電話をかけたこと。タクシーで病院に行ったこと。
交通事故に遭ったと聞こえたけれど、まったく意味が分からなかった。

助手席にかわいらしいお姉さんを乗せた、若いお兄さんが運転する車に、母は轢かれた。ぶつかる前にブレーキは踏まれなかった。お兄さんの車は50メートルも母を引きずった。前を見ていなかった、と憤慨する大人たちの横で。私は場違いに呑気に、夢中でおしゃべりを楽しむドライブデートを想像していた。それほどに現実感がなかった。

母の意識は一瞬たりとも戻らず。夜のうちに、あっけなく、死が伝えられた。少し具合が悪い、とつぶやく母の背中が、唐突に脳に浮かんだ。あれは、そう、今朝じゃなかったっけ。やすめば、と私は言った。わずか4文字だけ言った。たぶん本気じゃなかった。だいじょうぶ、行ってくるね、そんな会話をしたんだ。どうして、引き留めなかったんだろう。もっと、ちゃんと、休ませていれば。ごめんね、私のせいで、と思った。

その日から、我が家は父子家庭になった。

当時、父は営業職に就いていた。浮気をうたがった母に閉め出されることがあったほど、残業や付き合いの飲み会が多く、帰りはいつも遅かった。親族は近くにいなかった。運動部にいたはずの中学生の兄が、いつのまにか、早く帰ってカレーとかみそ汁とかを作るようになった。あのころ、何を食べて生きていたのか、正直おぼえていない。

周りの大人の表面的な同情が、心をえぐった。PTA会長だかの子が仲良くしてくれ喜んでいたら「あの子はかわいそうだから言うこときいてあげるのよ、っておかあさんが」と言われた。悪気はないのだろう。だが、腹立たしかった。母が死んだのは悲しいけれど、私はかわいそうじゃない。

だから、ちゃんとした。持ち物も勉強も運動も習い事もがんばった。同情されないように、かわいそうに見えないように。

鮮明に覚えているのは、こんなお弁当は恥ずかしくて嫌だと、ボタボタ涙を流して怒った日。運動会だった。お弁当箱の3分の2が白いご飯で、残る3分の1にへたくそなタコさんウィンナーが山ほど詰まっていた。インターネットもなく、クックパッドでレシピを検索することもできない時代だ。つくってくれたのは中学生の兄だった。兄は台所で悲しそうな顔をしたけれど、父にお金をもらってコンビニでサンドイッチを買い、包装を開けてお弁当箱に詰めなおし、学校に持って行った。

成長とともに分かったことは、兄は部活をあきらめ、父は営業職から早く帰れる閑職を選んだ、という事実。ありがとう、とは思わなかった。ただ、くやしかった。なんで?どうして?私のせい?

きっと、地域には手伝いたい人もいたはずだ。声をかけてくれれば手伝うのに、と思っていたかもしれない。でも、そんな人とつながるすべも、声をかけるすべも、兄と父にはなかったように思う。

私がAsMamaに入社して真っ先に考えたのは。

もしも、あのとき「子育てシェア」があったなら。「シェア・コンシェルジュ」や「ママサポ」という地域のお世話役が近くにいたのなら。

子育てを頼り合えるしくみがあって、地域の人を頼れたら。部活も、取引先との飲み会も、出張も、あきらめなくて済んだろう。運動会で困った、と「子育てシェア」で発信すれば「お弁当大丈夫?多く用意しますよ」と誰かが返してくれたかもしれない。私と兄と父の人生は、きっと違った

家族が何かを犠牲にして子育てをがんばるのは美談かもしれない。実際、あなたのお父さんはえらいわねぇ、と私は何度も言われたことがある。でも、自分のために家族が何かをあきらめたと知ったとき、子どもは悲しく想う。家族以外の手を借りて、何かを成し遂げてくれたほうが、私だったら圧倒的にうれしい。

大人になり、母になった今。ドラえもんのタイムマシンを見ても、バック・トゥ・ザ・フューチャーのデロリアンを見ても、タコさんウィンナー弁当の日を思い出す。もしも、あのとき「子育てシェア」があったなら。

「いっしょに何かできそう」そんな問い合わせが一番のサポートです。https://bit.ly/3aDo1qt 全国の自治体・施設・企業・団体・個人どなたでも。 共助コミュニティ創生、ブランディング、プロモーション、マーケティング、地域活性、子育て支援を、AsMamaとご一緒に。