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好きな映画レビュー第9回目、および好きな本レビュー第6回目 『ブレイブストーリー』

先日私用で2年以上ぶりに電車で都内へ出た。

ライブに行くことが趣味だったから、コロナ以前はよく都内のあちこちへ出向いていた。休みを利用しては新宿渋谷下北を主に、代々木原宿六本木、池袋恵比寿新代田荻窪高円寺吉祥寺・・・。
毎回毎回都内へ行っていたわけではなかったが、地元でも、旅行をかねて行った地方のどこかでも、ライブの生の空間へ行けば自分をどこかへ連れて行ってくれる気がしていた。
当時あの場でできた知り合いは、良くも悪くもみんなそういう似たような思いを持ってあの場にいた人たちだった気がする。

コロナ禍になって強制的に行けなくなってからはライブには全く行っていないし、最初は配信なども熱心に見ていたけれど、そこへ行かなくても見なくても(見ればやっぱり最高だ!と思う)、私は自分の時間を楽しめると気付いてしまってから、そこまでの熱量はなくなった。

そんなことをぼんやりと振り返りながら電車に揺られ、乗り換えでトコトコと歩いたり階段登ったり降ったり、道間違えたり、駅構内で軽く迷子になりかけたり、久しぶりに行ったらだいぶ疲労した。肉体的な疲労に加え、様々な洗練されたスマートな都会人の人々の群れに圧倒され精神的にも疲労困憊した田舎者。です。よろしくお願いします。

その日、洗練された都会の中へ2年半ぶりに突入し受けたカルチャーショックと怯えを和らげるためと時間を潰す意味もあって、古本屋らしきところへ立ち寄った。
そこの棚に陳列されていた本で、ふと目に入ったのがこちらである。


『宮部みゆき/ブレイブストーリー』



これはアニメ映画にもなっていて、私は原作を読むより先にこちらを観ていた。



「失敗したら二度と戻っては来れない」そんな危険を冒してでも、どうしても叶えたい願いがあった。それは、バラバラになってしまった家族を取り戻すこと。自分に降りかかった最悪な運命を変える扉の向こうへと踏み出した11歳の少年ワタル。しかし、そこから始まる途方もない旅は、ワタルの創造も、覚悟も、たったひとつの願いさえも、はるかに超えるものだった。 総合評価35点の見習い勇者、ごくごくフツーの少年ワタルが、戸惑いながら、迷いながら進む冒険ファンタジー。


これを読んだ当時の気持ちが怒涛のごとく押し寄せてきた。
これに出会ったのは、いつか記事で書いた天然パーマの一件“日替わりロール事件”があったくらいの頃である。


宮部みゆきさんに関しては中学生の頃からずっとファンだったし、読んだことのない本が原作ということもあって先にアニメを観たのだと思う。

アニメ映画の方ではメインのキャラクターの声優を務めたのがほとんど俳優やタレントで(途中、大泉洋氏によるアドリブ「なまら」がセリフに紛れていたりする)露骨な商業的な空気に「ウッ」と思いながらも、松たか子の表現力には納得させられた。

ごくフツーの少年が自分の願いを叶えるために異世界・幻界(ヴィジョン)へ旅立ち、出会う仲間たちと様々な困難を乗り越えながら冒険をするという内容は小説とも映像とも変わらず、変わらないのだけど、小説の方に関してはやはり宮部みゆきというか、なかなかにえぐい。
小説の上巻では主に、少年・ワタルがヴィジョンへ旅立つこととなるきっかけ、ワタルを取り巻く現実世界の事件や人間、その人間の周囲で起きることや起きたことがとても細かく描かれているが、ここがちょっと病んでしまうくらいにえぐい。「火車」とはまた違ったえぐさがある。修羅場。過酷。ひどい。なんなのこの大人たち。

下巻では、ヴィジョンでの冒険がメイン。ヴィジョンの仕組みや世界観も描かれ、そこには当時の我々の現実世界を照らし出したような表現もあり、20代前半の少しおばかちゃんだった私ですらうーむと思ってしまった。
クライマックスに向かっていく中で展開していくワタルやミツルの変化や結末では、人の深い内面を描く宮部みゆきさんの真骨頂を感じる。
「冒険ファンタジー」とは言われているけども、大人に向けたテーマがガッチリある小説だと思う。
原作は辞書くらいの分厚さがありしかも上・下巻とあるけれど、面白くて正味3日くらいで一気に読んでしまった。

映像では子供に向けた内容になっている。「冒険ファンタジー」に相応しいというのか、えぐさのある細かい脇役(この小説のテーマを支える重要な人物たちだと思うけど・・・)はカットされ、子供が観ていてワクワクしたりハラハラしたり笑えたりするキャッチーなものに仕上がっていると思った。
でも大筋のテーマがしっかり残っていて、ワタルの掴んだ答えに思わず目頭が熱くなってしまうあたりの内容もちゃんと描かれているし、2時間足らずのアニメにここまでこの内容が収まっていると思うと私はこれはこれで良いなと思った。こちらも初めて観た時は感動して、好きな映画だなと思った。


この物語では、「自分の願いを叶える」ことを目的として様々な旅をし、そこに向かうために困難を乗り越え、戦っていく。
この「願いを叶える」ことが目的の冒険は、言い換えれば、「叶えてもらう」ための冒険とも捉えられる。
この物語の中ではその叶えてくれる存在が『運命の女神様』であるのだけど、この存在がその人の「願いを叶えてくれる」から、ワタルやミツルは冒険を始める。
運命の女神様に会い、「願いを叶えてもらう」権利を勝ち取るために、降りかかる困難と戦い先へ進む。
しかしそうした旅の中で主人公・ワタルは、最終的に自分で自分の旅の本物のこたえを掴んでいく。


私たちの現実世界には運命の女神様はいないし、敵と戦う冒険をする必要もないしできない。
「願いを叶えてくれる存在」をこの現実世界に置き換えれば、人によって、信仰だったり、おまじないだったり、占いだったり、また憧れの人の存在だったり、場所だったり、あるいはスペックの高い恋人やパートナーだったり、愛らしきものを与えてくれる存在、だったりするのだと思う。
自分の運命を変えてくれるかもしれない存在。任せておけば願いを叶えてくれる存在。望む人生の方向へと運んでくれる存在。


20代の私が一番ライブに行っていたころ、この趣味がどこかへ連れて行ってくれるものな気がしていた。
電車へ乗ってわざわざ遠くに行き、そこの空気を見聞きすることによって、普段自分が暮らす日常と違うところへ行くことによって、何か違うものがもたらされるような気がしていた。
ちょうど私にとっての「運命の女神様」であるかのように。
電車に乗り県を跨ぐことで、あの場所へいくことで、自分の外へ出たつもりだったのだろうと思う。(もちろん、音楽が好きなのもあったけど。)

コロナ禍やそれ以前の変化により自然とその興味から離れ、そこから実生活を含めていろいろと変化をしたけれど、当たり前の話で、望む方向へと舵をきろうと決意したのは運命の女神でなくすべて自分で、自分の選択によるものだった。

運命の女神的な存在は、支えとなったりきっかけとなったり勇気となったりする存在のことで、目的地へ運んでくれ、何かを変えてくれる絶対的な存在などではないのだ。
青春ぽい言い方をすれば、自分の願いを叶えられるのは自分しかいない。


いつの間にかそういう学習をしていたことと、あのなにかぼんやりした必死さは何かを変えたい思いがあったからだということを、
いま2年半越しにあの頃のルートをたどってあの頃とは別の目的で県を跨ぎ、振り返って思いを馳せ、立ち寄ったところでこの本を見かけ、内容を思い返すことで初めて言葉で実感した。
それと同時に、そういう思いを抱えて生きてきていたあの頃の自分を思うと、ちょっと可愛い。


こんなところでいきなり伏線が繋がるような、妙な1日もあるものだ。
2年半ぶりの東京は変な感慨深さのあるものとなった。


そんな恥ずかしめの記事でした。

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