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好きな映画レビュー第6回目『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』

自分の知らないところで自分の知らないうちに、思ってもいなかったところへ続く道を辿っていたというようなことってある。

そういうときって何かを目印に頑張っているのでなく、あるいはそれに向けて頑張っていたはずが、次から次と起こる目の前の事実に対処をしているうちにその道を進んでしまっていて、結果まるで意図していなかった場所に辿り着いた、というある意味なにか不可抗力のような、運命的な巡り合わせが重なっているように思える。
運命。これが「運命のいたずら」というものなのでしょうかねー。


『レイニーデイ・イン・ニューヨーク』


大学生のカップル、ギャツビーとアシュレーは、ニューヨークでロマンチックな週末を過ごそうとしていた。そのきっかけとなったのは、アシュレーが学校の課題で有名な映画監督ローランド・ポラードにマンハッタンでインタビューをするチャンスに恵まれたことだった。生粋のニューヨーカーのギャッツビーは、アリゾナ生まれのアシュレーにニューヨークの街を案内するためのさまざまなプランを詰め込む。しかし、その計画は狂い出し、思いもよらないさまざまな出来事が巻き起こってしまう。

映画.comより


ウディ・アレンという監督はとてもとても有名らしいのだが、私は映画を観るのは好きでも監督の名前やその特色などにはまったくと言っていいほど知識がない。
この作品があなたへのオススメといって出てきたときに、どこかで見た名前だ、なんだろうとググってみたら、大好きなコリン・ファース見たさで観た映画「マジック・イン・ムーンライト」の監督だった。
単にコリン・ファースを堪能したくて再生した映画だったが、会話や人物の特徴がコミカルに描かれていて、妙な個性と個性が不思議なきっかけの積み重ねでぶつかりながらも最後はまとまっていく展開がロマンチックで好きだった。
(※コリン・ファース様に関しては言わずもがな、「キングスマン」での非の打ち所がないスーツ姿とそのスーツ姿でのアクションシーンはすでに800回くらい堪能させていただいております。)
余談でした。


小さなきっかけから、ことがことを起こし、出来事が出来事を呼び、あれよあれよという間に「まさかこんなことが」というようなところまで連れて行かれる。
予想していた週末が次々と変化して、一方はチャンスに恵まれ、一方は知らなかった事実が明らかになり、ついにはひとつの結末を迎えてしまう。

つながってつながって、向かうままにゴロゴロと転がっていく様を観ているうちに、観ている方もただ一緒にゴロゴロ転がってストーリーを追ってゆくことになるのが楽しい。

ままならないのが人生の常だとしても、そもそものきっかけがこんなに普通でささやかで、さも「日常です」のような顔をされていたら気がつくはずがない。気がつけないからままならないものなのかもしれないし、ままならないからおもしろい。
運命のいたずらのような想定外が必要なタイミングってある。
想定外の出来事が炸裂しながら、”あるべきところに落ち着く”ようなことは往々にしてあって、それは必ずしも本来望んでいたものと一致するわけでなくビターな味かもしれないけども、その結末には不思議と心地のいい落ち着きがあったりする。

誰の時間にも起こりそうな「人生の妙」みたいなものがとてもおもしろかった。
あと、音楽や雨の景色が素敵です。


この映画でも見られるものだけど、個人的にはこの「中年のおじさんと若い女の子」という組み合わせはいろいろ面白くて好きだなぁと思う。
それは別に恋愛感情が含まれた間柄を言いたいわけでなくて、この世代間の、「おじさんと若い女の子」というこの世代間のこの性別が作り出す場の空気が絶妙でいい。この組み合わせでしか作り出せないものがある。

何年か前にNHKの「LIFE!」というコント番組で、レギュラー陣の中年のおじさん(芸人さん)組がゲストである20代前半の若い女優さん相手にトークをしていた。それがおもしろかった。
「ゲストの女優さん」といえど、おじさん組は先輩で、「若い女の子」を会話の相手にしてどこか余裕を感じる。あえて少し悪い言い方をすると、小手先でちょっと小馬鹿にしたテンションで会話をする。
若い女の子はそれに無邪気にのっかる。
若いがゆえ言ってしまうふわふわした個性的な発言が、大人の男性達にはいじられつっこまれるだろうことを承知して楽しんでいる。おじさん組も楽しそうにあらゆる発言につっこむ。
その女優さんは可愛らしさや、明るさと爽やかさと実力も持ち合わせていて、嫌味な印象を私が持っていなかったせいもあるのかもしれないが、年齢の離れたおじさん組につっこまれて楽しそうに満足そうに笑っている顔がとてもリラックスしていて可愛かった。何より場の空気が楽しくて柔らかくてよかった。

芸人さんと女優さんでないとしても、これがもし、中年の男性と真っ当な30代女性、30代半ばや同世代の女性であればどうだろうか。
恋愛感情のない間柄で対等に雑談をするとしても、プライベートで仲のいい身内でもなければ互いにどこかちょっと気を使ってしまうように思う。

この年齢の人間同士として、
その世代の女性への発言として、
年上の男性とちょっと下の自分(ただし若くはない)として。
それが悪いことと言っているのではなく(むしろ良識的で大人の会話ができる間柄を私は尊敬する)、でもそこには、無邪気につっこむ、つっこまれる、小馬鹿にしてもいい空気で小馬鹿にする、その会話をただの楽しいこととして過ごす、そういうただ明るくてただ軽い、気にしない、そんな空気がもうほとんどない、ことの方が多いと思う。

30をとうに過ぎてしまっている私が社会の中で仮にちょっとでも若い子のようなふわふわしたことを言えば途端に針の筵である。
なんだかプライドも高くなっているような自覚がある。相手の発言を素直に聞けない自分も出てきがち。そういうところが相手に気を遣わせてしまう時もあり、この年齢になってもなお無邪気さや無神経さが抜け切っていない自分と葛藤の毎日。
ただ明るくただ軽く、つっこまれることを承知であとは受け取る先輩方に任せて無邪気にヘラヘラできていた若い女の子では強制的にもういられなくなっていた。

私にはもう無理だ。若き女の子さん達よ、あとは頼んだ。
あの独特の空気は、中年のおじさんとあなた方の間でしか作り出せないものである。この組み合わせでしか作り出せないものがある。

そんな思いつきがあったことを思い出しました。



だいぶ話が逸れたのですが、世代にふさわしく知的で良識的な大人のそれとはまったくもってかけ離れた、変な私の変なnoteにここまでお付き合いいただいた方がもしいましたら、どうもありがとうございました。

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