あんたの人生はクソだったか?
中学、高校、大学で特に将来やりたいことを見つけられずに、大学で無理やりやりたいことを決めて就職して、結局すぐ辞めてしまって大学で専攻したこととは全然違う仕事をしている人なんていっぱいいると思う。
今は知らないがドイツだと小学生の頃に将来の進路を確定してしまって、その後はその進路を変更できないというのを聞いたことがあるのだが、それもその後に迷いが生じず覚悟を決められるから良いのかもしれないと思ったこともある。嫌だけどね。
THE MATERIALIZE POST VOL.11
http://www.materialize.jp/art/press-release/9549/
学生時代にやりたいことがないとなんであんなに大人たちから責められるのだろう。じゃああんたらはその頃に確実にやりたいことがあったのかと、今、あんたらがやっている仕事は、学生時代にやりたいと強く願っていた仕事なのかと。
部活に打ち込むこともなくただなんとなく勉強して大学に行って、そういった学生時代を送った私を含めた似たような人たちは、有意義ではない薄っぺらい学生時代だったということになってしまうのだろうか。
実際、「自分史年表」アプリで、学生時代について書くことがない。「出来事」という欄は、やはり、一大イベントだと考えると、「あ、なんもやってねーわ」と思って、書くことがない。
自分の学生時代は、自分の歴史の中で、空白になってしまう。
だけど、本当にそうだっただろうか?
部活で大会がどうとか、旅行がどうとか、祭りがどうとか、そんな華やかなイベントは一切何もなかったが、自分の歴史として、この学生時代は、まったくの空白では決してない。
一人で黙々と図書館で小説を読んでいた自分、雪の中の踏切で転けた自分、やたらと道行く外国人に話しかけられる自分、こんなことしか日常になかったのでこんなことしか学生時代を語れないが、こんな歴史があってこそ今の自分があるのは間違いがない。
センター試験の会場で一人雪降中ベンチで震えながら復習していたら事務員に呼びかけられて屋内に待機できる教室があると教えてもらって恥ずかしかったとか、何故か鮮明に覚えているのだが、こういった他人にとってどうでもいい些細なことの積み重ねが、人の人間の個人の胸を張って間違いがない立派な歴史なんだと思う。
クソみたいな人生なんて無いと思う。
今日から大江戸線の電車内に「自分史年表」アプリの広告が貼られています。
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