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それを勇気と言わないで

この社会には、発した人の意識せぬままに「いい/悪い」の価値判断を含んだ言葉と、「常識」の暴力が溢れている...


私は旅をするのが好きだ。見知らぬ土地を逍遥して、気になる香りを追いかけ、バス停で人と語らうのが好きだ。

今年は、どこにも行くことができなかった。

私は身体が弱いから、今回に限らず、病が流行すると、家に籠らざるをえない。家のなかで私は、嗅覚を、隣の家の夕飯を想像するために研ぎ澄まし(昨日はたぶん餃子)、対話力を本の中の人々と語らうために磨き上げる。そうやって、なんとか自分をご機嫌に保っている。


COVID-19が流行しはじめ、病の特質がほとんど分かっていなかった頃、外出する人たちは責められた。吊し上げにあったと表現しても良いかもしれない。

家にいることに慣れていない、あるいは、家が安全な場所ではない人たちは本当に辛かったと思う。彼らに手を差し伸べず、安全な場所から罵倒する人々の姿が怖かった。


今は、メディアやSNSで、外出することを「勇気」と表現しているのを目にする。「勇気」は、価値中立的な言葉ではない。ただの選択を「勇気」と呼ばないでほしい

身体の弱い者、高齢の家族を抱える者は、やむを得ず外に出られないのに、どこか「勇気がない」と冷笑される。「私、身体弱いので。家族が基礎疾患があるので。」何か言い訳をしなければいけないような気にさせられる。健康な身体で、健康な精神で、狭い枠の中で捉えた世界の「常識」をごり押ししてくる人が怖い。


(セクシャル)マイノリティという自覚を持って生きていると、

当たり前に使われる言葉の多くが、「いい/悪い」の価値判断を含んでいること、

そして、それが「常識」の暴力として、他人を傷つけること、

無自覚な攻撃は、それはそれで、たちが悪いこと、に気付く。


誰も傷つけずに生きていくのは不可能かもしれないけど、そのことをしょうがないと諦めずに、丁寧に丁寧に生きたいものである。


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