大丈夫、なぜなら今日は残りの人生で一番最初の日だから。

15歳のとき。ある発表会のような場で、目の前にいる大人たちに向かって私は言い放った。

「私はもう、何を始めるにも年を取りすぎている、そう思うことがあります」

この言葉を、大半の人が冗談だと受け止めて、うっすらとした笑いを口元に浮かべた。15歳の若造が何を言うんだと。

だが、私の言葉は本心から出たものだった。だって、オリンピックにしたって、音楽のコンクールにしたって、数学の大会にしたって、何かの分野で光り輝いている人は、皆、「3歳のときに始めました」とか、「6歳の頃にはもうこのことに興味を持っていて」とか、そう言うんだもの。英語がペラペラ話せる大人は大概「幼少期に少しだけ海外に住んでいて」と言って、私をがっかりさせるんだもの。

15歳なんて、何かを始めるにはもう、遅すぎる年齢だ。私はもう、年を取りすぎている。絶望的な気持ちだった。

1人だけ、笑わない大人がいた。その老紳士は私の目をまっすぐ見つめて言った

Today is the first day of the rest of your life(今日という日は、あなたの残りの人生で一番最初の日)

しわしわの顔で老紳士は、しっとりと微笑んだ。


「何にでもチャレンジしろ」そんな浅い言葉を吐く人を私は信用していない。だって人生は有限で、できることには限りがある。持てる力の全てを注ぎ込んだって、きっと一匹のホモサピエンスができることは、宇宙の歴史からしたらちっぽけなこと。人生はきっと、そんなに長くないのだ。

だが、自分が力を注ぐべき何かに出会えたとき、それを始めるには充分に、人生は長い。人生に終わりが訪れて、求める何かを達成できなくとも、数世紀後の誰かがそれを引き継ぐかもしれない。そう、ホモサピエンスの歴史はまぁまぁ長いのだ。


私の通っていた大学には、年上の同級生が沢山いた。20歳年上、40歳年上、年齢が世代単位で違う同級生と、私は一緒に授業をうけて、学園祭でタピオカを茹でた。

講義室の一番前で、背筋を伸ばしてピンと手を挙げた老紳士は、何歳も年下の教授に質問をする。「ここが分からないので、もう一度説明して頂けますか?」

この教授はこわい。完成度の低いレジュメは、容赦なく破る。期末試験のそこそこ書けた私の答案に3点をつける(なぜ0点ではないのだろう。3点の内訳を私は聞きたい)。教授の書く論文は切れ味が凄すぎて、そこに名前を挙げられた研究者はメッタメタにされる運命にある。

鬼...

だが鬼は優しい。誠実に学ぶ者に優しい。「誰にでも分かるように説明できないのは、説明している自分自身がそのことをよく理解していないからだ」鬼はよくそう言う。質問をうけた鬼は嬉しそうにくしゃっと顔をほころばせ、身を乗り出して説明を始めた。老紳士の横顔が、きらきらと輝いていた。

深く理解すること、深く深く理解すること。その営みは果てしなく続く。鬼と老紳士は、少年のような勇敢さで、遠い道筋を共に歩き始めた。

老紳士の名前を私は知らない。いつのまにか大学で見かけなくなった彼が、どこにいるのか私は知らない。「なぜ学ぶのか。何のために学ぶのか」不躾な問いを、彼にぶつけてもみたかった。だが、しなかった。問いの答えはもうすでに、私自身が持っているような気がした。


なぜ書くのか、なぜ学ぶのか。私はこのnoteを書きながら、自問している。答えはすでに自分のなかにあるのだけれど、だから書いているのだけれど、だから学んでいるのだけれど、それを語る十分な術をまだ私は持っていない。

私が力を注ぐべき何かというのは、セクシュアリティを抱きかかえつつ、幸せに生きていくにはどうすれば良いのか考えることだ、とある時から感じている。私と私のセクシュアリティに限らず、全ての人がそれぞれのセクシュアリティと共に、幸せに生きていくにはどうすれば良いのか。

拙い言葉で語りはじめることは、正直こわい。だが、きっと大丈夫。


いつだって私たちは、残りの人生のはじまりに立っている。残りの人生を始めている。そう、だから恐れることはないのだ。

私は今日も、この瞬間も、人生を始める。そんな自分を目いっぱい褒める。私が今日を生きている偶然に喜ぶ。万物に感謝をする。

私たちは、始めることができる。死ぬその瞬間まで。



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