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恋愛漫画のキラキラは標準装備じゃないらしい ~あるアセクシュアルの話~

「好きだ」と思っていた人が、私の顔に触れようとした。近づいてくる手を、私は蚊をあしらうかのように振り払ってしまった。

振り払われた手をそっと戻したその人は、きょとんとした顔をした。私もきょとんとした顔をしていたと思う。自分のとった行動に、びっくりしていた。

あれ?なんか違う。違うよ。本当はどうなるはずだったんだっけ。確か漫画だったら、キラキラしたものが出てきて、花とかが飛び散って、二人とも顔を赤らめながら次のページに続くんじゃなかったっけ。映画だったら、陽気な音楽が流れて、画面が明るくなるんじゃなかったっけ。ミュージカルだったら踊りだしてもいいよね。

私の周りにキラキラは出現しなかった、出現する気配もなかった。私は全然踊りだす気分じゃなかった、無音だった。空気は乾燥していて、部屋がやたら暗く感じられた。特に隅の辺りが暗くて気になる。家電の段ボールとかそのままとっておいてるんだこの人。返品するつもりなのかな。ああいう段ボールって虫の卵とかついているときあるから、捨てた方がいいよ。

手を振り払うのは、確かに反射的ではあったけれど、自分の気持ちと一致している行動だった。さてどうしたものか。とりあえず私は「えへっ」と笑ってみた。相手も同じような作り笑いをした。私たちは何事もなかったように好きなアーティストの話を続けた。ローリング・ストーンズって、結構なお年なのに逞しいよね。クイーンのブライアンさんって天文学の博士号持ってるんだって。

私は相手の深く追ってこないところが好きだった。何事もなかったように話を続けるところが好きだった。低血圧で低体温なところが好きだった。私たちの関係は穏やかで、浮きも沈みもしないところが好きだった。でも、そんな私たちの関係はきっと終わってしまったんだとはっきり分かった。手を振り払ってしまった瞬間を境に、時間が断絶されている。

案の定、私たちの関係は沈んでいった。連絡が絶え絶えになっていた頃、蝉が最後の力を振り絞ってジッって鳴くみたいに、「付き合ってほしい」と言われた。私はなんて断ったんだっけ。あんまり酷い言葉を吐いてないといいけど、それすらも覚えていない。


「冷めたってやつだよ」私の一連の報告を聞いて、元野球部マネージャーの友人、モテ子は言った。「次行ってみよ、次」

私はなんだかモヤっとした気持ちがあったが、モテ子のアドバイス通り、次に行った。その次にも行った。その次の次にも。私がハントした相手には、男性も女性も中性の人もいた。

そして気付いた、「私、人からの性的な視線を受け入れられない」

「好きだ」と思っていた相手からの視線であったとしても。性的な視線が当たっている間は、私の「好き」という感情はバックヤードに退いてしまって、表舞台には「気持ち悪い」という生理的な嫌悪だけが残る。性的な雰囲気がなくなれば、また相手のことを「好きだな」と思うこともあるのだけれど。一度覚えた生理的な嫌悪は、相手に伝わるらしく、大概その時点で関係が終了してしまう。

セックスもしてみたけれど、ピンと来なかった。気持ちいい?まあ、身体的には。楽しい?うーん、興味深くはあるけど、それ以上でもそれ以下でもない。セックスに特別な意味づけがされている理由は、よく分からない。

私の態度は相手を困惑させ、怒らせた。「思わせぶりな態度とって何がしたいの?」「ハンティングゲームを楽しんでるだけじゃない?」「心が乾いているんじゃない?」私は相手を傷つけていたみたいだ。そうか自分は酷い人間なのかと思った。申し訳ない。私なりに相手と誠実に向き合っていたつもりだけど、どうやらそれは独りよがりだったらしい。


私の「好き」は相手がいう「好き」とは何かが違うのかもしれん。そんなことを考えるなかで、私のモヤモヤがはっきりとした形を持つようになった。モテ子は「冷めた」って言ってたけど、そもそも私冷める以前に熱くなってないないよね?私の「好き」は平熱で、体温の急上昇や急降下を引き起こすことはない。これってもしかして「好き」とは違うの?

恋愛感情と、他人に向ける性的な欲求。どうやら私にはそれらが欠けているらしい。アセクシュアルという概念は、私のことを優しく包み込んだ。

アセクシュアルというカテゴリーで自分を捉えることは、私に心地よい変化をもたらした。といっても、私に対する否定的な意見がなくなったわけじゃない。「未熟なだけなんじゃない?」「セクシュアリティとか言って、自分の問題から逃げているだけなんじゃない?」こういった否定的な意見のなかには、私を心配する優しさから生じたものも確かにある。そういった優しさには、できる限り丁寧に応えたいと思い、模索した。ヒトは一人一人、見えている世界が全然違うという意識を共有することで、相手の優しさを少し受け止められるようになった。アセクシュアルという概念に触れるなかで、私は以前よりも饒舌に、この世界が自分にはどのように見えているか語れるようになった。


私は他人との交流、特にセクシュアルな人との交流は全て異文化交流だと思っている。自分一人では起こせないような化学変化が起こるから楽しい。いろんな化学変化がパチパチ起こる世界のなかで、私は「女の子が好き。恋人がほしい」と語る男の子と仲良くなった。「女の気持ちが分からない」という彼に、「『女』ってまとめて捉えるのがよくない。一人一人を見なきゃ」ってアドバイスもした。

彼の恋愛遍歴を生温かい目で見守っていたら、しばらく経って突然、「付き合おう」と言われた。「私はたぶんアセクシュアルだよ」と言っても、「それでもいいから、付き合おうぜ」と引き下がらない。なんだか面白そうだから付き合ってみることにした。

付き合うといっても、あまり大きな変化はない。二人だけで過ごす時間が増えたことと、ザ・デートスポットみたいなところに行くとき私がワンピースを着て、少し気合いを入れてメイクするようになったことくらい。

そんなあるとき、私が生理痛で苦しんでいるのをみた彼が、尋常ではない驚き方をした。何に驚いているのだろう、生理痛というものを知らなかったのだろうか、性教育大事などと思っていたら、違った。彼の驚きは別方向だった。

「えーー、女性だったの?」

彼は私のことを男性だと思っていたらしい。私は腹(ちなみに生理痛でめっちゃ痛んでる腹)を抱えて笑ってしまった。「あなた、女の子が好きで、女性の恋人が欲しかったんじゃないの?なんで男性だと思っていた私と付き合っているのよ」

彼はもうだいぶ前に、一人でこの問いに向き合って、彼なりの答えを出していた。「こいつが男性でもまあいっか。女の子とセックスできなくなってもまあいっか。それよりこいつと付き合っていく人生の方が楽しそうだ」と。

最高のほめ言葉だ。彼のことを変な奴だと心の底から思ったけれど、愛おしくて仕方なかった。

「スカートをはいていること=女性」ではない、「メイクをしていること=女性」ではない。そういう彼の見方にも、好感が持てた。彼は、私がワンピースを着ているのは、そういう装いも好きな人だから、私がメイクをしているのは、おしゃれさんだからなのだと捉えていた。確かに、私がワンピースを着るのはワンピースが好きだからで、メイクをするのはメイクをした自分の顔が好きだからだ。正解。

じゃあなんで彼が私をあえて男性だと判断していたかは、残念ながら彼自身もよく分かっていない。私からのアドバイスを真面目に実行した彼が、自分の男/女という概念を改める過程で、どうやら私は男に分類されたようである。私を男に分類したその後、彼のなかで男/女という線引きがどうでもいいものになっていったらしかった。


さて、私が女性だとバレてしまった以上(隠していたわけではないけれど)、私たちの関係がこの先どうなっていくのかは分からない。彼の男女観が、また変化していくかもしれない。彼が私に性的な目線を向けて、私が拒絶する日がくるのかもしれない。私は自分が女性であることを呪う日がくるのかもしれない。

今はただ、彼のことが愛おしい。私たちの関係が心地よい。彼が私にくれる愛情も、私が彼にあげる愛情も、恋愛漫画みたいにキラキラはしていないけれど、「まあいいよね、幸せだし」そう思って毎日生きている。この関係が、この世に別れを告げるその瞬間まで続けばいいなと願いながら。



この記事のタイトルは結構悩んだ。私は自分の性質をアセクシュアルというセクシュアリティとして捉えるのが一番しっくりとくる。セクシュアリティは生まれつきのもので、体験とか後天的な要素で変化するものではない。「標準装備」って書くと、誤解を生むかもしれない。恋愛感情とか、性愛って後からオプションで追加可能ってこと?って。私が「標準装備」って言葉に込めたかったのは、恋愛感情とか性愛とか、誰もが当たり前に持っていると思われているけれど、そうではないよ、備わっていない人もここにいるよっていうメッセージ。もっとピンとくる表現が見つかったらタイトル変更するかもとは思いつつ、とりあえず投稿してみる今日この頃です。


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