「さっき道端で見た赤い花」の名前をどうやって調べるか?
6月11日。
1800年、伊能忠敬が日本地図作成に備えた第一次測量のために、蝦夷に向けて出発した日。
1972年、田中角栄が『日本列島改造論』を刊行した日。
2001年、任天堂が北米でゲームボーイアドバンスを発売した日。
誕生花はベニバナほか。
そんな6月11日。
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今日、野暮用があって母と車で外に出た(夕方ごろものすごい雨だったので心底車でよかったなと思った)。
途中、下の写真のような花がたくさん道端に咲いているのを発見した。
なんていう花だろう……と思いつつ、運転中なのでスマホで調べることも出来ず、モヤモヤしながら家に帰った。
帰ってからスマホで調べてみたのだが、これがなかなか出てこない。
「花 6月 赤い」とか「道端 花 夏 赤」とか検索ワードを変えて調べてみても、なかなかこれだという花にぶち当たらない。
なにぶん車の中だったので細かい特徴まで形容することができず、記憶もおぼろげなので「この花……かな……?」みたいな花も複数出てきてしまい、お手上げ状態。
もやもやするけど仕方ない、諦めるかーと思っていた矢先。母が一言。
「あの花!タチアオイじゃない?」
同乗していた母も、見たことはあるが名前が思い出せず苦戦していたらしいのだが、パッと思い出したらしい。
「タチアオイ」で調べてみると、ドンピシャ。車中で見たあの赤い花だ。
なんでもかなり丈夫でガーデニング初心者向きの花らしく、道端の痩せた土壌でも棲息できるらしい。
10分強悪戦苦闘していたのが嘘のようなあっさりとした幕引き。
答えはわかったからいいのだけど、なんか早押しクイズで負けたようなどことなくモヤッとした気分。
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ところで、「検索力」って、この時代を有意義に過ごしていくにあたってけっこう大事なのじゃないかと思っている。
それは、単に情報に直線的にたどり着くスキルというだけじゃなくて、「集合知の使い方」のスキルだと思う。
例えば、今回は母の知恵袋によって無事解決できた「さっき道端で見た赤い花」問題。
自力で答えにたどり着くためにはどうしたらよかっただろう?
自分で調べたときには、「6月 花 赤い」などかなり範囲広めなワードでしか検索にかけていなかった。
季節の表現をもっと絞ったらどうだろうか?
ちょうどいま時期は梅雨。
「梅雨 花 赤い」で調べてみる。
すると、1ページめに早速こんな記事が出てきた。
うーん、一発。
ちなみにタチアオイはその開花時期から「梅雨入りと梅雨明けを知らせる花」とも言われるらしい。
それもなんかオシャレやんけ。
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そもそも、ビジュアルでしか記憶していない花に対しては、検索結果を「画像」から攻めて見るのも有効だろう。
いちいち文字情報からページにアクセスして、ページ内の膨大な情報から解を手繰り寄せるより、とりあえずは検索ワードでソートされている画像たちを見て「これだ!」というもののリンク先を調べるほうが効率が良さそうだ。
ちなみに、そのやりかたで調べてみたら30秒くらいで花の名前がわかった。
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というわけで。
検索力とは「どれだけ物事を多角的に捉え表現できるか」の力であり、それらの情報を「集合知に対してどんなアプローチでアクセスするか」を判断できる力だと思う。
「さっき道端で見た花」に対して、どれだけ多角的で的確な表現ができるか。
それを「どんなアプローチ」で検索するか。
この2つを自由自在に操ることができれば、検索力は「集合知を旅する能力」になる。
それは、高度に情報が入り組んだ現在においては、生活力そのものと言って良いと思う。
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でも、必ずしも知りたい答えにたどり着くだけが検索の価値ではない。
調べていく過程で、思いも寄らない情報に出会うこと自体も検索の価値だと思う。
「さっき見た道端の花」問題なら、調べていく過程で6月の時期に咲く他の花(クチナシとか、ツユクサとか、ヤマボウシとか)も知ることが出来た。
「誤検索」が、むしろ新たな知識への扉を開いてくれるかもしれない。
そう考えると、一番大事なマインドセットは「検索そのものを楽しむこと」だともいえる。
ちなみに、検索ワードを変えることで今までにない文脈を手に入れる、ということについては東浩紀さんの本に詳しい。
いかに自分たちがネット利用において思考停止していたかがよく分かる本。氾濫する情報に惑わされないマインドを作るためにもおすすめの一冊。
「情報持ってるほうが勝ち」みたいに言われがちな現代。
でも、大事なのは保持している情報の多寡じゃなくて。
「自分なりの情報の楽しみ方」だと思う。
そんなことを考えながら、花のイラストを描きました。サムネにしてるやつです(散々話題にしてたタチアオイではなく、今日の誕生花であるベニバナですが)。
花、詳しくなりてー。