【推し本】戦争は女の顔をしていない/今こそ読んでほしいアレクシェーヴィチ
ベラルーシ初のノーベル文学賞作家でジャーナリストのスヴェトラーナ・アレクシェーヴィチの代表作の中でも、「戦争は女の顔をしていない」は特に今こそ広く読まれてほしい本の一つだ。
2022年2月、ロシアがウクライナを侵攻し、21世紀かとは信じられない悲劇が日々流れ、6月時点終息の兆しが見えない。後から振り返ると、すでに第3次世界大戦が始まっていたのかもしれない。
戦争という非日常のある種の熱狂や勢いの中で、実態の見えない「大きな言葉」やプロパガンダに踊らされない視点を大切にしたい。
戦争は女の顔をしていない
女性の身体性と相いれない戦争というもの
この本でいう戦争とは、80年前の独ソ戦争で、当時のソ連軍には多くの女性兵士が存在し、衛生指導員、狙撃兵、機関銃射手から、看護婦、料理係、洗濯係として任務についた。
100万人ともいわれる女性が戦争に行って、至近距離で殺しあうような白兵戦も戦っていたといわれる。
普通の女学生が時代の流れの中で当たり前のように兵隊志願し、「祖国」のために武器を取り、前線で凄惨な経験をする。
彼女たちが記憶しているのは、初めて人を殺したこと、仲間が殺されたことの衝撃も当然あるが、自慢のおさげを切らなければならなかったこと、戦争中に背が伸びたこと、初めての生理がきてけがかと思ったこと、そのうち生理も止まってしまったこと、前線に向かう途中でハイヒールを買ってうきうきしたこと、包帯を集めてウェディングドレスを作れたこと、味方を助けたと思ったら敵だったこと、前線基地でスープを作って待っているのにみんな殺されて帰ってこず作ったスープをどうしようということ、、、。
生理がとまるほどの激務や、目の前のけが人を敵味方で分けるなどできないなど、次世代を生み育てる身体性を持つ女性にとって、戦争というシステムは相いれないのだ。
ポリフォニー=無数の小さき人々の声
こんな証言集がこれまであっただろうか。
確実にあったはずなのに、記録すべきほどでないと矮小化され、なかったことにされていた人々の記憶。
戦後は、戦争に行った女たちに対して白い目が向けられ、何があったか隠して生きてきた彼女たち。
彼女たちが重い口を少しずつひらいたのは、アレクチェーヴィチが辛抱強く関係を築き、インタビューを重ねた成果だ。
ソ連時代には、すべてがありのまま語られたわけではなく、アレクシェーヴィチ自身も自己検閲し、ペレストロイカを経てやっと追加された証言もある。
無数の声を集めるポリフォニーという手法は、ロシア文学の伝統らしい。一つ一つの声は悲惨で救いがないようなものも多いが、その声同士が波紋のように響きあうことで、辛さを浄化し、癒しあうような効果を生む。
実際アレクシェーヴィチの本を読むのはそれなりに骨が折れる。
しかし最近小梅けいとさんによる漫画化も出版されたので、お子さんでもわかりやすくなっていると思う。
ボタン穴から見た戦争
併せて読まれたいのは、子供の視点からの戦争証言集だ。
ナチスがベラルーシで行った残虐な行いは、村ごと焼き払っていくなど凄惨だが、その中を生き延びた子供たちへの聞き取りとなっている。
兵士の膝の高さにも届かない幼児だった頃の記憶、目の前で親兄弟の銃殺を見た子供、娘を生かすために収容所でお前は私の娘じゃない!と言い張る母親、、、幼かった子供たちの証言は戦後40年もたってからのものなので、意図的でなくても記憶の変化や、そう思いたかったことが語られているということもあるだろう。
それでも、戦争から本来一番遠くにいる子供たち、未来を創っていく世代までもが巻き込まれてしまうのが、戦争の最も醜いところだと思う。
小さき人々の声が常に聞こえる状態にあるか
いずれも、国家、政治、軍、男性の目線で「大きな言葉」で語られることが多い戦争を、その中で生きた女性や当時子供だった人たち何百人に聞き取り、多面的に浮かび上がらせる途方もない労作である。
小さき人々の声は、時として政権や体制にとってはノイズでしかない。しかし、それをノイズとして封殺するか、民主主義の根幹とするか、そこに人類の未来もかかっているのではないだろうか。
2022年の本屋大賞受賞の「同志少女よ、敵を撃て」(逢坂冬馬著)は「戦争は女の顔をしていない」がなければ生まれなかった作品だ。「戦争は女の顔をしていない」では1-2ページでしか語られない人たちを、物語としてヴィヴィッドに立ちのぼらせた力作である。
それから、日本でもロングランヒットとなった映画「この世界の片隅に」では、国家や軍隊の「いさましく大きな言葉」ではなく、市井の女性の視点からの「小さき人々の言葉」で戦争が描かれた。映画もぜひ見てほしい。
チェルノブイリの祈り
もう一つ、チェルノブイリ原発事故後の関係者への聞き取りによる本作も、アレクシェーヴィチの労作。
こちらは戦争ではないが、突如の原発事故で、普通の暮らしをしていた住民が何を見て何を聞き、何を聞かされなかったのか、これも丹念な聞き取りの結集。
読後、鉛を飲んだような重たい気分になるが、知らないでいるより知っておくべき歴史の断片だろう。
アレクシエーヴィチとの対話
アレクシェーヴィチが原発事故後のフクシマを訪れ、「小さき人々」に耳を傾ける。
社会主義時代のチェルノブイリと違い、日本人は資本主義・民主主義の国にいるとされているのに、国家はどこも同じ論理で動き、国家は人間を欺き利用し、国家と役人は自らの救済に走る、と看破する。
そして恐怖政治を植え付けられていた社会主義の人達と同じく、日本には「抵抗の文化」がない、人々は常に役人や国家をあてにして各々が一人で耐え忍んでいる、それは何故なのかと言外に問いかける。
個人が分断された「点」で留まり、社会という「面」に広がっていない、「抵抗の文化」とは切り離された個人が結びつきつながること、そうした社会になってこそ創り出せる文化を意味する。
ベラルーシでは2020年には大統領選挙の不正疑惑に抗議デモも起こったが、反政府派は逮捕や国外退去させられ、アレクシェーヴィチも今はベルリンからロシアの知識人らに連携を呼びかけているとのこと。
民主主義の多様性については、こちら↑もぜひ!
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