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【推し作家】カロリン・エムケ/自己認識のために人は他者を必要とする

行くと何かに出会える、荻窪のTitleさんで、たまたま手に取って知ったドイツのジャーナリスト作家です。手に取ったというか、本に呼ばれたという感じですね。

なぜならそれは言葉にできるからー証言することと正義について

タイトルの「それ」って何だろう。本書を読むと「それ」に込められた意味はとても深いとわかってきます。
強制収容所での非人間的で凄惨な、当事者が思い出したくもない極限の体験を、それでも語ることの意味を探ります。
言葉にできるはずというのは、ローコンテクストでなんでもロジック重視のいわゆるユーロッパ的な発想で、ハイコンテクストで”わびさび”の日本は”沈黙は金”文化でよいではないか、、、と短絡には捉えられません。

自己認識へと至る言語的存在である我々は、他者から個人として認識されることを必要とする。
自分の「自我」を自覚し、理解するというそれだけのために、人は他者を必要とするのである。
自身の継続的なアイデンティティが証明され、確認され、問われるのは、他者との会話においてなのだ。他者との会話によってはじめて、体験したことを理解し、それを経験として形式にすることが可能になる。
他者との交わりにおいてのみ、我々は個人のアイデンティティという糸を手にして、編み上げることができる。

あまりの体験ゆえに、言葉にできても首尾一貫しない証言の「ずれ」や「ひび」はそれが当事者の傷を映しているのかもしれないと聞く側が想像し、耳を澄まさなければならないと著者は言います。
語り手の発言が信頼に値するかではなく、聞く側が語り手が信頼を寄せるに値するかと、指した指をまともに自身に突きつけるような指摘が鋭いです。
アウシュビッツを訪問したEU議長が「とても言葉では表せない、我々は決して忘れてはならない」と発言したそうですが、伝えることすらタブー視させることで、記憶されねばならない出来事の記憶が失われ、若い世代が過去を記憶することに不快感や拒絶を招くと、その発言の浅慮を厳しく批判します。
今や遠い昔となったアウシュビッツだけではなく、イラクのアブグレイブで何が起こったか、今まさにヨーロッパでイスラムをめぐり何が起こっているか、あるいは世界でハイチ地震がどう伝えられているか、と各地での取材を通した著書の視線は透徹していて、そしてどこまでも温かいのです。

「民主主義という挑戦」という章で、著者は排除のメカニズムについて重要な示唆をしています。
意図的・明示的な差別的排除(例えば特定の国籍や宗教への対応)だけでなく、意図的でない行為や習慣にこそ「異物はないことになっている」あるいは「特定のイメージに安易に紐づける」という仕組みが刷り込まれています。
例えば、テレビで吃音者は出てこない、子供のおもちゃに黒い肌の人形は見ない、一方でスカーフやムスリムという言葉は抑圧や原理主義を想起させる、そして、食事のとり方一つとっても出身階層を判断する材料となる(そして都合よく排除する)、といったことです。

排除のメカニズムは、常に政治的意図や他者を差別する目的と結びついているわけではなく、多くの場合、単に我々のイデオロギーの死角で起きるにすぎず、それゆえに、静かに繰り返されています。
基準を基準として意識するのは、ほとんどの場合、その基準に当てはまらない人です。
白い肌を持つ人は肌の色による区分になど意味はないと考えます。異性愛者は、性的指向による区分になど意味はないと考えます。
基準など本当にあるのだろうかと疑う贅沢が許されるのは、基準に当てはまる人のみです。

この問題意識は次の「憎しみに抗って」でも掘り下げられていきます。

憎しみに抗って

社会を分断する不寛容さ、SNSなどでの野放しの誹謗中傷、歪な憎しみが醸成されるプロセスを、技術や文明の発展の成果としてはならないでしょう。
著者は、異質な信仰、異質な外見、異質な愛情を持つ者への不理解、拒絶感、反感が、攻撃的な確信を伴う憎しみと暴力に変換するプロセスがいかに巧妙かつ構造的かを明かしていきます。
あからさまな行動に加担しなくても、扇動しなくても、傍観するだけで加担になり、対象とされた人々を絶望させ、貶め、孤立させ、壊していくのです。

著者は白人のドイツ人なので難民、ユダヤ人問題では差別する側(著者にその意がなくても)のマジョリティになりますが、自身トランスジェンダーでありマイノリティとして差別を受けてきた側でもあります。
特定のイデオロギーによって周到に準備される憎しみの入れ物は、ちょっとした侮蔑、レッテル、それらを増強する毎回の枕詞やイメージによって作られ、知覚パターンができ上がることで準備されていきます。
犯罪を犯す難民もいるが、全ての難民が犯罪者ではない。当たり前のことでも、では難民への恐怖感と防御感(とその先の攻撃)はどこから形成されてしまうのでしょう。
正確に観察し、差異を明確にすることが憎しみに立ち向かう方法と説きます。
憎しみと暴力に至るプロセスを詳細に解像度をあげて可視化することで、そうしなくてもよかった可能性を追求するのが社会の義務というのはハンナアーレント的です。
本書で取り上げられる、NYで警官による無実のアフリカ系アメリカ人の首締め拘束で窒息死させBLM運動になった事件は2014年のエリックガーナー事件ですが、私がこの本を読んだ2020年にまさに起きたジョージフロイド事件のことかと思ったくらい、あまりに相似しています。
無数のエリックガーナーとジョージフロイドがいたであろうことに虚しさすら覚えます。
難民やユダヤ人や黒人差別と聞くと、どこか遠い国の話と思われるかもしれませんが、女性、LGBT、外国籍、障がいなどにより不合理に権利が制約される事実は日本でも起こっています。
実際、個別案件にスポットライトを当てられるほどでもなく、起こりすぎていることにもっと自覚的にならないといけないと思います。
ほら、「憎しみの入れ物」への入り口が、そこかしこにあるじゃないですか。。

イエスの意味はイエス、それから…

不平等は、そこから利益を得ている者たちによっても批判されない限り、解消されることはない。

非白人、異教徒、LGBTQ、あるいは単に女性というだけで差別や脅迫や暴力に遭う時に、それは個人的な出来事とされがちですが、個々の差別案件は「偶然にも」非白人、異教徒、LGBTQ、女性に降りかかるとなると、そこにはなんらかのメカニズムがあるのです。

#MeToo 運動では多くの女性が勇気を出して実体験を語りました。
当事者が語ることで、経験していない者でも追体験できるし理解できる、そう思ってきた著者自身が、しかしその後に見たのは当事者に対する凄まじい非難や拒絶や出来事の矮小化でした。
差別や暴力を受けた側がその体験を説明するエネルギーを常に持ち続けないといけないのだろうか、と自問します。

著者はドイツに住む白人でレズビアンです。つまり、移民でもユダヤ人でもなく、MeTooの女性のような被害も受けにくい。
だからこそ#MeTooについて当事者でない者が何らか語る意味を掘り下げます。
必要なのは多様な声と多様な体験。多様な社会的関係性があることを知り、それにより特権を享受できているとするなら、その特権は自分で勝ち取ったものではないことに自覚的になること
フェミニズムやLGBTQをめぐる議論は後回しにしていい副次的な、あるいは贅沢な議論ではない、それは人の痛みに順位をつけることだから。だからこそ全ての人にとって、自由が生き残るかが懸かる問いなのだ、と説きます。
深い思考の上でつぶやくように言葉を紡ぎだす本著には、本質的でハッとさせられる文が詰まっています。

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