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【長編小説】清掃員の獏(4)

前回

 それからふたりは、ほとんど言葉を交わさなかった。
 かれこれ二時間くらいのぼり続けていると思うが、足の疲労が思ったほどでもないのは、やはりここが夢の中だからなのだろうか。
 ようやく現れた扉を、沙凪は無言のまま開く。
 暗い部屋だった。
 壁も床も黒くて、壁にぽつりぽつりとオレンジ色の光が灯っているだけ。さっきの校舎と同じく天井は穏やかな青空だが、部屋全体が暗いこともあって、さっきよりも一層白々しく見える。
「博物館みたいですね」
 オレンジ色の光の下には、茶色く変色した能面や、古びた着物や掛け軸が飾られていた。
「お前、こういうのが好きなのか?」
 背中を丸めた男が、興味なさそうに能面を覗きこむ。
「芸術とか歴史はさっぱりです」
「だろうな」
「はい?」
 沙凪が聞き返すと、男は「ひとり言だ」と顔をそらした。
 展示物をぼんやりと眺めながら部屋を進む。壁と展示パネルで細かく仕切られた通路はくねくねと曲がり、枝分かれしている。
 少し歩いたふたりは、黒い壁に、見覚えのある白い扉がはめこまれているのに気がついた。扉は開いている。どうらや元の場所に戻ってきてしまったらしい。
「もし他の道もすべてこんな調子だったとしたら、厄介だぞ」
 扉の右方向にある通路を進むと、今いる通路を飛び越えて、左の通路につながるということになる。これでは方向も距離感もまったく頼りにならない。自分の夢ながらめちゃくちゃだ。
 それからふたりはしらみ潰しに通路を歩いた。扉のある通路を基点に、左右にいくつもの道が伸びている。しかし、そのどれを通っても扉がある通路に戻ってきてしまう。真っ黒な壁も、展示物も、どれもよく似ていてまったく目印にならない。だんだん、扉の場所に戻ってきても、本当に戻ってきたのかさえ自信がなくなってくる。
 何十回目にして、今までと違ってなかなか扉に戻らないルートに当たった。このままいけば出口が見つかるかも。そう期待し始めたところで正面にあの扉が現れ、沙凪はついにその場に座りこんでしまった。
「あれだけ歩いたのに」
「他に出口があるってことか」
 あたりを観察した男が、壁と同じ色の片開きの扉に気づいた。向こう側を警戒しながら、慎重に扉を開ける。中にはモップや掃除機しかないただの物置だった。
「他のドアも探してみろ。だが一気に開けるな。何か気になるものがあったら呼べ」
「ちょっと、休憩してもいいですか?」
「好きにしろ。勧めないがな」
 突き放すような男の言葉に口をとがらせた沙凪は、小さく文句をこぼす。
「老体は労った方がいいですよー」
「聞こえてんぞ」
 ドキッとした沙凪は、引きつった顔でそっと男の方を見る。ところが釘を刺した男は、もう沙凪に背を向けてすたすた行ってしまっていた。
 はあ、とため息をつく。
 同じだけの距離を歩いて、どうして男はこんなにも元気なのだろうか。きっとこの男はこれまでも、色々な問題を蹴散らして、自分だけの力で前へ突き進んできたのだろう。この男のそばにいると、普段からやわな自分が、さらに軟弱に思えてくる。
「私、何やってんだろ」
 重たい腰を上げて歩く。
 何気なく壁に添えた手が何かに触れて、沙凪は立ち止まった。壁をなでると、丁度指先が引っかかるくらいのくぼみがあった。表面は冷たくてつるつるしているが、完全に壁と同じ色で、見ただけでは気づかなかった。
 くぼみに指を引っ掛け、そっと横にスライドする。
 一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。
 細く開いたドアのすき間から、目が痛くなるくらい白い部屋が見えた。床は磨き上げられ、部屋の真ん中にはぱりっとしたシーツで覆われたベッドが置かれている。開いた窓から吹きこむ風でゆったりとカーテンが揺れている。
 いったんドアを閉じ、沙凪は男を呼んだ。
「なんか、なんか変です!」
 通路の先の方にいた男が駆け足で戻ってくる。
 もう一度、ドアを開ける。
 強い湿気とともに、風に乗った雨が吹きこんできた。
「なるほど、確かに変だ」
 男がつぶやく。
 目の前の光景に、沙凪はしばらく硬直する。沙凪の見た「変」と今の「変」があまりにも違っていたのだ。
 扉の向こう側は、大雨だった。
 男は躊躇せず雨の中に踏みこんでいく。大粒の雨は、カーテンのように一瞬で男の姿を隠してしまった。
 沙凪も慌てて追いかける。一瞬で髪も服もずぶぬれになり、肌にぴったりはりついた。叩きつけてくる雨粒と顔を流れる水で、まともに目を開けていられない。アスファルトに叩きつけた水が靴の中に入りこんで、ぐじゅぐじゅと音をたてる。
 雨の向こうには、古風な日本家屋が並んでいた。木の壁と屋根瓦の目立つシンプルな作りで、同じようなたたずまいの家が道の両脇に何軒も連なっている。
 沙凪は、少し先に黒い塊が転がっているのを見つけた。男も気づいたらしく、少しだけ歩速を緩めた。
「なんだ、これ?」
 地面に転がっていたのは、黒い革カバンだった。
 男がそっと拾い上げると、ぬれてずっしりと重たくなっていたカバンから、ペンやハンカチなどがこぼれ落ちた。すでに中までぬれていたらしく、文庫本は倍近い厚さにふくれ上がっていた。
 それを見た途端、沙凪の中で何かが一気にあふれてきた。
 強い怒り、悔しさ、そして同情的な思い。それらが絡み合い、体の内側で暴れだす。
 胸が痛い。
 どこからか、クスクスという笑い声がする。
 雨のすき間をかいくぐって、まっすぐ耳に入りこんでくる。
「どうした」
 音の発生源を探す沙凪を、男は怪訝な顔で見ている。男には聞こえないのか。だが、明らかな悪意を持ったその笑い声はどんどん増え続けている。すぐそこから聞こえてくるのに、どこを向いても背後に気配を感じる。
「出てきなさい!」
 沙凪は雨に向かって言い放つ。自分でも信じられないほど強い声だった。
 言ったところで出てくるとは思えなかったが、言わなければ何かに負けてしまうような気がした。
 こんなことで屈してはいけない。
 あんなやつらに負けてはいけないのだ。
 強く自分を律しようと、拳をにぎりしめる。
「こんなことをしても無駄。私は負けない」
 あいつらに負けてはいけないのだ。
 あいつらにだけは。
 頭の中でだれかが叫ぶ。
 でも、あいつらって、だれだ?
 水面に浮いたカバンが脚に当たった。そこでようやく、沙凪はひざ下まで水に浸かっていたことに気づいた。雨はさっきよりも勢いを増している。
 次の瞬間、何かが脚に巻きついた。
 声を上げる間もなく、すさまじい力で水の中に引き倒される。
 ひじと尻を地面にぶつけ、鼻に水が入った。体を地面にこすりながら水中を引きずられる。目を開けるが、水は濁っていて自分のひざも見えない。恐怖に混乱した口から空気がもれ出ていく。
 ダメだ、負けちゃいけない。
 こんなことで屈してたまるものか。
 内から湧き上がる得体の知れない力を借り、アスファルトに手をついて、なんとか体を起こす。
 水面に突き出た手を、何かがつかんだ。腕が強引に引っぱられ、ようやく顔が水から上がる。
「動くなっ」
 男が水の中に向かって刀を突き立てる。
 刺されたそれは獣のような声を上げ、沙凪の脚を放して水の中に消えていった。
 傷口から出たらしき黒いものが水に漂っている。気味が悪くて、沙凪は足を引っこめてそれから離れた。
「ここじゃ身動きがとれない。水から上がるぞ」
 水位が腹のあたりにまで上がってきた。男の肩に借り、塀を伝って家の屋根の上に登った。だがここからどうすればいいのだろう。道はすべて川のようになっているし、入ってきたドアは水の底だ。他へ通じそうな扉も見当たらない。
「来たんだね」
 振り返ると、例の女の子が微笑んでいた。
 宙に浮いた状態で。
 屋根の向こう側には空が広がっていた。彼女の背後と足元には見渡す限り雲が広がり、強い風にお下げ髪と制服のプリーツスカートがなびいていた。
 沙凪は手を伸ばしてみる。
 雨が切れ、手首から先を冷たく強い風がなめた。
 大雨で川のようになった道と、一面の雲海が、屋根を隔てて隣り合っている。普段なら驚くか笑いだすところだが、今はそんな余裕もなかった。
 女の子が手招きする。
「早く、こっち」
 沙凪は吹きつける風を手で遮りながら声をはり上げた。
「どうやってそっちへ行けばいいの?」
「ただ踏みだせばいいんだよ」
「でも、どうやって」
「早く早く」
 女の子はどんどん離れていく。この何もない空を、どうやって進めというのか。
「行くぞ」
 今にも虚空へ踏みだそうとしていた男を、沙凪は慌てて引き止めた。
「ま、待ってください! ここを、行くんですか?」
「他に道はない」
「でもこれは道じゃないです」
 言葉を遮るように、水しぶきが上がった。水面を突き破って飛んできた何かを、男が刀で受ける。ギン、と硬質な音をたてて弾かれたそれは、黒い帯に見えた。全貌が見えないうちに、すぐに水中へ戻ってしまう。
「あの子は来いと言ってる。あの子が今まで俺たちに危害を加えたか?」
「そうですけど……」
 沙凪はおそるおそる屋根の際まで行く。高速で流れる灰色の雲と、うなる風の音に、体が縮み上がった。全力であとずさる。
「無理無理無理無理、絶対、無理ですっ」
「じゃあどうするんだ。ここにいたって、いずれやられるぞ」
「待って、待ってください」
 手が、ひざが、唇が、震える。
 ここを飛び降りるなんて、どう考えても自殺行為だ。いくらここが夢の世界だと言っても、感覚は現実そのもの。自分には絶対できない。沙凪はいつも通り鈍くさい凡人で、夢の中だからといってすごい力があるわけでもない。刀をだせたり、触れずに蛇口を回せたとしても、空は飛べない。
「もういい、行くぞ」
 男が沙凪の腕をとり、乱暴に屋根の端まで引いていく。沙凪は全力でその手を振り払った。
「待ってっ」
「いい加減にしろ!」
 いらだちを隠さない男に、沙凪は一気にまくし立てた。
「む、無茶言わないでください! 私にはできません。無理です!」
 自分の無力を本気で主張する情けなさに、沙凪は泣きたくなってくる。だが無理なものは無理だ。
「お前、そうやってなんでも逃げてきたんだろ」
 沙凪を見つめていた男の目が、いらだちから呆れへと変わっていた。
「……え?」
 声がかすれる。
「嫌なことから全部逃げて、自分には無理だって目をそむけてきたんだろ」
 ただでさえ恐怖で縮み上がっている心臓を、にぎり潰されたような気がした。
 沙凪が言葉を失っているのをいいことに、男は続ける。
「そんなんだから、お前はここにいるんだ」
 なんで、どうしてそんなことを、この男から言われなければならないのだろう。今日初めて会ったはずのこの男が、沙凪の人生の何を知っているというのだ。
 そう思うのに、何も言い返すことができない。
 しぶきを上げて、黒い帯が飛んできた。
 男が再び刀で受け流したそれは、帯ではなく髪の毛の束だった。空中へ飛び上がった人魚の髪が、男に向かって長く伸びている。人魚といっても、おとぎ話のような可憐かれんさは微塵みじんもなく、ぬれた髪の毛がはりついた顔は狂気の笑みに満ちていた。ヌメヌメと不気味に光る体を宙で踊らせた人魚が、大きな尾ヒレを振り上げる。
「クソッ」
 タックルするみたいな勢いで、男に抱きかかえられる。
 体が傾き、足が屋根から離れる。
 雨がやんだ。
 視界に灰色が広がる。

つづく

Photo by Victor あず吉 あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ


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