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【長編小説】清掃員の獏(5)

前回

※ 流血表現があります。

 灰色の雲の中を、ぐんぐん降下していく。
 いくら手を伸ばそうと、足をつっぱろうと、つかまれるものは何もない。虚空に投げだされた体は、なす術もなく落ちていく。
 悲鳴が止まらない。口の中が一瞬でからからになる。
 風圧で開かない目から、先程までこみ上げていた感情が別の涙となってあふれ出た。
 嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ。こんなの嘘だ。
 こんなめにあうなんて。
 どうして私が。
 時間を戻したい。
 全部なかったことにしたい。
 急に視界が明るくなった。
 雲を突き抜け、視界が青に染まる。
 でも、不思議な既視感があった。
 この景色を見たことがある。この恐怖も、足場がない心細さも、後悔も、覚えがある。
 いつのことだ。どうしてそんなことになったのだ。
 それを思いだすよりも、海面に叩きつけられる方が先だった。
 バンッ、と膜を突き破るような音とともに、浮遊感に包まれた。次いで襲ってきた息苦しさと、肌を刺す水の冷たさに沙凪はもがく。
 やっとの思いで水面に顔をだした。少し離れたところに見えた陸を目指し、腕で水をかく。服が体に重たくまとわりつくが、どうにか顔だけは水上に上げておく。
 波に押し流されながら泳ぐうちに、つま先に地面の感触があった。初めは飛び跳ねるように、次第にしっかりと足をつけて歩けるようになる。
 岸にたどり着いた沙凪は、体を浜に投げだして、しばらくそのまま息を整えた。頭がずきずきする。体の力を抜こうとしても、全身がこわばって、震えが止まらない。
 顔にまとわりつく髪と、口の中の塩辛さを鬱陶うっとうしく思える余裕が出てきた頃、ゆっくりと体を起こした。体にはりついた砂がはらはらとこぼれ落ちる。
 長細い島のような場所だった。浜に上がってほんの五メートルも歩けば、再び海にぶつかる。そのかわり、白砂の浜は細長くどこまでもまっすぐ伸びており、地平線の先にも終わりは見えない。両側を囲む穏やかな海の向こうにも何も見えなかった。
 沙凪の目の端で何かが動いた。体を引きずりながら浜に上がった男が、力尽きたように倒れこむ。
 沙凪はなんとか立ち上がり、砂に足をすくわれながら男のもとへ走る。
「大丈夫ですか」
 返事はないが、ぬれた男の背中は呼吸のたびに大きく上下している。沙凪はそっと男の肩に触れた。
 その手はすぐさま弾かれた。
 真っ赤に充血した目ににらまれ、沙凪は言葉を失う。
 男はふらふらと体を起こした。短い髪から水を滴り落ちる。
「……ざけんなよ」
 口の中に残っていた海水と一緒に言葉を吐き捨てる。
「どこのだれかも分かんねえやつの夢に突然引きずりこまれて、手貸してやろうとした結果がこのザマだ」
 男の横顔が、だんだん別人のそれに見えてくる。こめかみの血管を浮き立たせ、顔には疲労が色濃く表れている。
「つき合わされるこっちの身にもなれ。いくら無理だできないとわめいたってな、ここには逃げ場なんかねえんだよ!」
 これまでにない剣幕に、沙凪は黙ってその言葉を聞くしかなかった。
 それが本音なのか。
 沙凪の夢に巻きこまれていい迷惑だと思っていたのか。
 男はこれまで何度も沙凪を守ってくれた。色々言われはしたけど、それでも沙凪を見捨てなかった。だから男を信じようとしてきた。
 でも本当は、自分がここから出たいだけだったのかもしれない。
 その時、沙凪の目が、男の背後にある扉を見つけた。
 鉄製の重厚な二枚扉。扉の上に定規のような目盛りがついている。いつからあったか分からないが、もうそんなことどうでもよかった。
 沙凪は男の横をすり抜け、エレベーターへとまっすぐ進む。
 気づいた男が声を上げる。
「おい、何してる、よせっ」
 その命令口調が、どうしようもなくしゃくさわった。
「どうせ全部夢なんでしょ。だったら、あなたもこのバカげた夢の一部ってことです」
 夢の言いなりなんかごめんだ。沙凪は足を速めた。
 後ろで男が体を動かす気配がしたが、追いかけてくる足音は遅い。
「待てっ」
「私に指図しないで!」
 もう何も言わないで。
 命令しないで。
 エレベーターの前で振り向き、今までで一番の声をはり上げる。
「私はっ――」
 チン、と乾いた音が響く。
 背後でエレベーターのドアが開いた。
 振り返るより早く、何かの影が沙凪を覆った。
 扉から、我先にともみ合いながら複数のイミューンが飛びだしてくる。
「逃げろっ!」
 男が沙凪の腕をつかみ、エレベーターから引き離す。
 男に放り投げられた勢いのまま、沙凪は走った。
 だが、一向に追ってくる気配がない。
 何かおかしい。
 足を止めた沙凪は、後ろを振り返る。
 沙凪の方を見ているイミューンは一体もいなかった。この場にいるすべてのイミューンが男をねらっている。
 腕を振った男が、自分の拳に振り回されてバランスを崩す。男の動きは、青白い高校生が生まれて初めてケンカをしているみたいに、ひたすら情けない。それでも男は立ち上がり、イミューンにつかみかかっていく。
 なぜそんなに必死に戦うのだろう。
 夢から出るため?
 命が惜しいから?
 呆然とたたずんでいた沙凪に、男が怒鳴る。
「何してる、走れ!」
 男の注意がそれた一瞬、イミューンの一体が大きなあごを広げて男に迫った。
「オジサンッ」
 男が振り向いた時には、イミューンの牙が肩に突き刺さっていた。男の顔がゆがむ。
 沙凪の呼吸が止まる。
 さらに動きが鈍った男の脇を、別のイミューンの爪が裂く。ひざをついた男に、イミューンが押し寄せていく。引き倒された男は必死に抵抗するが、数の前にはなす術もない。アメ玉にアリが群がるように、男の姿はあっという間にイミューンにとり囲まれて見えなくなった。
 肉を打ち据える鈍い音と、男のわずかなうめきが、沙凪の耳を支配する。
 目をそらすことができなかった。ただ自分の肩を抱き、まばたきひとつせずにその光景を見つめた。吸った息が吐きだせなくて、意味もなく口が開いたり閉じたりする。
 しばらくすると急に静かになり、イミューンたちの動きも大人しくなった。幾重にも重なったイミューンの脚の向こうで、砂に沈みこんだ男の体が垣間かいま見えた。
 動かなくなった男を、イミューンたちはエレベーターへ引きずっていく。男を確保したことで満足したらしく、やはり沙凪には見向きもしない。
 拘束された男の、砂と血にまみれた顔が見えた。
「オジサン!」
 すべてのイミューンがおさまると、エレベーターの扉が閉じた。
 扉の上の目盛りがひとつだけ光っていた。それが消えると、かわりに隣の目盛りが光る。光はひとつずつ左にずれていき、やがて左端で止まった。
 あたりは不気味なくらいの静寂に包まれた。浜にはおびただしい数の足跡と滴り落ちた血のしずくだけが残されていた。
 沙凪はその場に立ち尽くす。
 どうしよう。
 男が、連れていかれた。
 自分のせいだ。
 どうしよう。
 思考が同じところをぐるぐる回って、何を考えられない。
 沙凪に分かるのはただひとつ。今の自分が直面している、抗いようのない現実だけだった。
 今の沙凪は、ひとりきりだ。
 

 エレベーターにはスイッチのようなものが見当たらず、いくら待っても上がってくることはなかった。
 だから、とにかく歩いた。
 男はどこへ連れていかれたのか。自分はこれからどこへ行けばいいのか。何も分からない。
 歩けばそのうち何かが見えてくるのではないか。どこか別の場所へ続く扉が不自然に置かれているのではないか。そう願いながら、ひたすら足を動かし続けた。
 天気がいいし、波も穏やかだけど、どこか不気味だった。相変わらず空に太陽はない。砂浜なのに貝殻のひとつも見当たらない。あるのは海水と砂だけだ。
 なれない砂に時折足をすくわれながら歩いて、何時間が経っただろう。そもそも、この塔に入ってからどのくらいの時間が経ったのかも分からなくなってしまった。まだ数時間のような気もするし、丸一日経っていると言われれば、それも納得できる気がする。
 果たしてこっちに進んで正解なのだろうか。いくら進んでも終わりは見えず、新しい道も見えてこない。もしまったく逆の方向に進んできたのだとしたら、と不安になるが、戻るだけの勇気も気力もなかった。
 なぜ自分が歩いているのかも忘れかけた頃、地平線の向こうまで無限に続く砂浜の上で、何かが揺らいだ。
 初めは陽炎が見せた幻覚かと思った。だから、潮風にゆったり揺れるおさげ髪を見た時は、安堵で涙が出そうになった。
 女の子はいつも通りまっすぐ沙凪を見つめていた。今は半袖のシャツに白っぽいコットンのショートパンツだ。白砂の照り返しのせいで、色白な肌がいっそう透き通って見える。
「ここはどこ? どっちへ行けば出られるの?」
 女の子は今までに見たことがない表情をしていた。沙凪を見つめる目には、あわれみが浮かんでいる。けれどきゅっと結んだ口や、落ち着かない様子で何度もにぎり直される手には、こちらの様子を窺うようなおどおどしたものも感じる。
「あのオジサンが連れていかれちゃったの。私、どうしたらいいか分からなくて」
 すがるような気持ちで沙凪は問いかける。今はこの子以外に頼れる人がいない。
「何か知ってるんでしょ。お願い、教えて」
 懇願こんがんしてみても、女の子は顔色ひとつ変えない。
 沙凪はだんだん、何かをとがめられているような気がしてきた。
 急にまた胸が苦しくなってきた。
「お前さ、なんでそんなやつと一緒にいんの?」
 突然、背後から声がした。
 振り向くと、例の男の子が詰襟の黒い制服を着て立っていた。教室の時のような怒りはなく、見た目もずいぶんと成長している。今は、なぜ空が青いか分からない子どものような無邪気な顔で沙凪を見ていた。
「そいつのこと、そんなに好きか?」
深水ふかみ君」
 無意識につぶやいていた名前に驚いた。その名に引っぱられるように彼に関する記憶が湧き上がってくる。
「深水君、なの?」
 音をひとつひとつ噛みしめながら、ゆっくりと繰り返した。
 沙凪の初恋の相手が、中学生の生意気さと、とんがった自意識を持ってそこに立っていた。
 ずっと好きだった。だけど声をかける勇気はなくて、ずっと遠巻きに見ていることしかできなかった、憧れの相手。そうか、だから彼には顔があるのだ。
「なあ、そいつの何がいいの?」
 そんな突拍子もない質問を、深水は大真面目な顔で投げかける。
 沙凪は答えに困った。
 この女の子はいったいだれなのだろう。なぜ沙凪の前に現れるのだろう。
「気にしないで。私だけを見て」
 やっと口を開いた女の子は、先ほどと変わらず、まっすぐ沙凪だけを見ていた。
「あなた、だれなの?」
「それは今はどうでもいい」
 どうしてみんなこんな言い方をするのだろう。はっきり言ってくれればいいのに。周囲をぐるぐる回るばかりで、核心にたどり着かせてくれない。自分で答えを見つけなきゃいけないのは分かる。だけど、それにしたってヒントが少なすぎる。
 右から深水の言葉、左から女の子の視線を受け、沙凪はおろおろと首を左右に振ることしかできない。
 あせるほど、思考が停止していく。
 ダメだ。やっぱりひとりじゃ何もできない。どこへ行けばいいのか、何をすればいいのかも分からない。男の判断力と行動力があったからこそ、ここまで来られたのだ。もし今イミューンと出くわしたらどうすればいい。沙凪ひとりでは戦うことはおろか、満足に逃げることもできない。
 必死に気づかないふりをしてきた心細さに、急速に心が侵食されていく。
 こんなところにいたって助けなんかこない。そんなこと分かっているけど、どうすればいいのか分からない。
 空気が抜けるように、その場にぺたんと座りこんでしまった。
 女の子も深水もいるけど、沙凪は今、ひとりぼっちだ。
 パタッ、としずくが砂の上に落ちる。
「助けて」
 だれに言ったつもりはなかった。ただ、口にださなければおかしくなってしまう気がした。たががはずれたように、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「どっちに言ったの?」
 沙凪がのろのろと顔を上げると、女の子が「どっちに言ったの?」と繰り返した。
 沙凪は、女の子と深水を交互に見る。ふたりとも、無表情なまま沙凪をじっと見下ろしている。
 正直、助けてくれるならどっちでもいい。
 名前を思いだせたということは、深水は沙凪にとって重要な存在なのだろう。このわけのわからない夢の中でようやく自分の一部を見つけられた気がして、彼の存在がとても愛おしく感じる。
 でも、行く先々で沙凪たちを待っていてくれたのは、女の子の方だ。
 説明は足りないし、トラブルを引き寄せもするけど、あの女の子が現れるたびに、沙凪は言いようのない安堵感に包まれる。同時に、沙凪のすべてを見透かされているようで怖くもある。感じるのだ。この子は沙凪のことを知っている、常に見ていると。
 沙凪は女の子を見上げる。
「助けて」
 女の子が嬉しそうに微笑む。
「わかった」
 女の子は沙凪の横を通りすぎて、後ろに回りこむ。いつの間にか深水はいなくなっていた。
 立ち止まった女の子の足の後ろで、砂がうごめいた。アリ地獄のように砂が陥没していく。その穴はどんどん広がり、砂を押し上げてエレベーターがせりだしてきた。
 女の子は、エレベーターとは逆の方向を指さして言う。
「このままずーっと進んで行けば、そのうち扉は見えてくる。でも、いつかは分からない。こっちなら、思い通りになる。ただ、あのオジサンの言う通り、上には行けないし、出口につながってもいないけどね」
「どうすればいい?」
「それは自分で決めるの」
 女の子はそう言うなり、エレベーターの裏側に消えた。
 沙凪が裏側を覗くと、そこには女の子の姿はなかった。エレベーターの周りを一周してみるが、足跡すら残ってない。
 再びひとりになってしまった沙凪は、エレベーターを見上げた。
 このまま進めば出口はある。しかし、そのあとも階段は続くだろうし、その先には新たな扉が待ち受けているに違いない。この先、沙凪ひとりで乗り越えていけるとは思えない。
 かといって、沙凪が男を助けに行ってどうにかなるものだろうか。あれだけのイミューンがいる場所に乗りこんで、沙凪に何ができる? そもそもどうやって男の居場所を捜す?
 ――いいか、この塔ではお前が信じたものが真実だ。
 ふと、男の声がよみがえった。
 沙凪は、さっきから胸の中でひしめいている罪悪感をとりだしてみた。
 男は、これまでずっと沙凪を守ってくれていた。男が捕まったのは、沙凪が信じなかったからだ。
 エレベーターを見上げる。
 深呼吸して、乾いた唇をなめた。
「連れてって。あの人のところへ」
 ゴウン、と重たい音とともに扉の上の目盛りのひとつが光った。一番左から、ひとつずつ右にずれていく。
 一番右の目盛りが光ると、チン、と音がした。
 扉が、開いた。

つづく

Photo by Victor あず吉 あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ

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