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【長編小説】清掃員の獏(3)

前回

 それから、男の指示でさやを作った。なれれば瞬時に刀をだしたり消したりできるらしいけど、とても沙凪にはできる気がしないので、男に持っていてもらうことにした。鞘をつなぎのベルト通しにくくりつけて、再び階段をのぼる。
 間もなく扉が現れた。さっきと同じ、白い両開きの扉だ。
 男は立ち止まり、開けるようあごで示した。
 またか。
 扉の前に立つ沙凪は、完全に腰が引けていた。さっきは大丈夫だったけど、次も大丈夫という保証はない。ついさっきもイミューンに殺されかけたばかりだ。
「平常心で開ければ何も起きない。だから安心しろ」
 男の「安心しろ」は完全に命令形だった。理不尽だ。そんなこと言われて、平常心を保てるものか。
 かといって、他に道はない。
 途中でビビらないように、一息に扉を押した。
 扉の先には、廊下がまっすぐに伸びていた。今いる場所に比べると、床も天井もくすんだ色をしている。
 懐かしい。
 左側の壁には扉と、緑色の掲示板が並んでいる。右側には窓、その下には表面が欠けてなだらかに研磨された石の手洗い場。塩ビの床は輝きを失い、ところどころタイルが欠けて下のコンクリートがむきだしになっている。沙凪が通っていた小学校の校舎にそっくりだった。
 ただひとつ。大きさを除いては。
 沙凪は遥か頭上にそびえる、オレンジの断面のような手洗い場の蛇口の先を見上げる。
「これって、ここが大きいんですか? それとも私たちが小さいんですか?」
「さあな。どっちにしろ、いい予感はしない」
 天井は晴れていた。厳密に言えば、天井があるべき場所に青空が広がっていた。体感で六、七階建ての建物と同じくらいの高さがある壁が、途中でどこまでも突き抜けるような青にとけて消えている。
 片側二車線の道路くらい太い廊下をふたりは進む。まっすぐな廊下は、先が見渡せないほど先まで続いている。
「何か思いだすか?」
「まあ、懐かしいなとは思いますけど」
 単純に、校舎に入ったのが久しぶりというだけかもしれない。今のところ、あのハンカチを目にした時のような気持ちの変化はない。
「重要なのは場所じゃないのかもしれないな」
「あの子どもですか?」
 沙凪の言葉に、男が少し驚いた顔をする。沙凪が気づいていたのは意外だったらしい。
「まあ、まだ不確定要素が多いが、顔があるからにはそれなりに重要な役どころにいるはずだ」
 顔のある人物には大抵役割があり、夢の主の人生に大きな影響を与えた人物の投影であることが多いのだという。確かに、顔のある男の子と女の子を見た時は、他人とは思えぬものを感じた。しかしその親近感がどういった感情から来るものなのかは、まだはっきりとつかめない。
「まあ、気長にやってくしかない。答えはお前の中にしかねえんだ。何か感じたり、思いだしたりしたら言え」
 男のその言葉に沙凪は息苦しさを覚えた。裏を返せば、いずれは沙凪自身がこの奇妙な夢に結論を見出さなければならないということだ。なぜここにいるのかも、未だに分からないというのに。
 教室の扉はどれも閉じていた。この大きさでは開けることもできず、開いた扉がないか探しながら進み続ける。
 ふと、沙凪の目を引くものがあった。教室と教室の間にある柱の表面に、重たそうな二枚の扉が埋めこまれていた。しかも、ふたりの大きさに合っている。この校舎の中では雰囲気も大きさもあまりに異質だったが、それでも今の沙凪には希望の光に見えた。
 駆け寄りながら、思わず弾んだ声が出ていた。
「エレベーターです」
「よせっ!」
 男の切迫した声に、沙凪はたじろぐ。
 沙凪の腕をつかんで乱暴に自分の背に引きこんだ男は、刀に手をかけエレベーターをにらむ。男の背中は呼吸もせず、いつでも飛びだせるよう、限界まではり詰めている。そのあまりの気迫に、沙凪は反論することも忘れてエレベーターの扉を見つめた。
 扉はぴったり閉まったまま動かない。
 しばらく様子を窺っても動く気配がないので、ようやく緊張を解いた男は、沙凪に正対した。
「いいか、エレベーターにだけは絶対に近づくな」
 静かだが、有無を言わせぬ口調だった。
 目の前に立たれると、沙凪は完全に見上げる形になる。おどすような男の目つきに、声が出ない。強くつかまれた手首が急に痛くなってきた。
 自分の剣幕に気づいたのか、男はばつが悪そうに二歩ほど離れた。
「エレベーターは下にしか行かないんだ」
「どうしてですか?」
「そういうもんなんだよ」
「でも、パターンはないんじゃ?」
「今までも上を目指す夢は何回か体験したが、エレベーターとかエスカレーターとか、楽して移動できるものが上に行ったことはない」
「下には、何があるんですか?」
「深い眠りだ。下へ行けば行くほど、主の意志の力は弱まる」
 沙凪はおそるおそる尋ねた。
「もし、目覚めなかったら?」
「死ぬまで夢を見続ける」
 早口に言いきった男が、例の会話を拒否する姿勢に入ってしまったので、それ以上は何も聞けなかった。
 それからふたりは、ひたすら無言で歩き続けた。靴の裏がはりつくような塩ビの床の感触を踏みしめながら、沙凪はあくびを噛み殺す。イミューンはおろか人の気配すらない廊下は、穏やかというより気だるい空気に包まれていた。角度のせいで窓の外は空しか見えないから、どのくらい進んできたのかも分からない。
 ふと、男が足を止めた。
「おい、見ろ」
 数メートル先の扉が、少しだけ開いていた。
 思わず早足になり、扉のすき間から中を覗きこむ。予想通り、中には机とイスが並んでいた。
 廊下と同じ対比の教室は、体育館ひとつ分くらいの広さに感じられた。イスの座面が、男が手を上げてもまだ届かないくらいの高さにある。前後の壁にとりつけられた黒板はきれいに掃除されていた。人の気配はないのに、木製のロッカーには廊下側に黒、窓側に赤いランドセルが並んでいる。
 中ほどまで入ると、何かが振動するような低い音が聞こえてきた。見上げれば、窓に面した棚の上に、大きな水槽が置かれている。
「いやに暑くないか」
 男がつぶやく。
 そう言われて初めて、沙凪は自分の鼻にも汗がにじんでいることに気づいた。じっとりと湿気を帯びた熱が教室に満ちている。廊下はこんなに暑くなかったはずだ。
「来たんだね」
 背後から声がして、ふたりは振り向く。
 教室の入口に、あのふたつ結びの女の子が立っていた。さっきよりだいぶ体が大きくなっているが、それでも沙凪よりはずっと背が小さい。小学校の高学年くらいだろうか。沙凪は、ひざに手をついてその子の目を覗きこむ。
「私のこと、知ってるの?」
 女の子はうなずく。
「君の名前は?」
「――」
 一瞬、女の子の声が遠くなり、耳鳴りがした。
 沙凪が「え?」と返すと少女はもう一度名前を言ってくれたが、また瞬間的な耳鳴りがその声をかき消した。もう一度聞き直すのは気が引けた沙凪は、質問を変えた。
「ここはどこ?」
 なんの根拠もないが、この子ならこの場所のことを知っているような気がした。女の子はにっこりと「学校だよ」と返してくれる。
「小学校?」
「うん」
「ここは君の教室?」
「うん」
「でも、すっごくおっきいけど?」
「さっきまでは普通の大きさだったんだよ。水槽の魚を見てたらね、突然小さくなっちゃったの」
 女の子はそう言いながら、窓際の水槽を指さした。
 引き寄せられるように、水槽に近づく。ろ過装置の振動や、ポンプが酸素を送りだす音がさっきより大きく聞こえる。
 水槽には魚が浮いていた。黒と白のまざった大きくきれいな尾ヒレが、ろ過装置から流れる水に当たって力なく揺れている。
「お前のせいだ」
 頭上から声が降ってきた。
 いつの間にか背後には、傘に入れてくれたあの男の子が立っていた。こっちは、教室の対比に合った身長だ。
 痛くなるほど首を上げる。
 男の子の目には、水面に腹を見せて浮かぶ魚が虚しく写りこんでいた。
 沙凪の胸が、ぎゅうっと痛くなる。
 いくら空気を吸っても肺がふくらまない。荒々しく脈打つ鼓動が、血管や心臓を破る勢いで内側から押し広げる。
 教室の温度が上がる。ポンプだかと思っていたのは、水が沸騰する音だった。ゴポゴポと大きな気泡が、水槽の底から次々に沸き上がってくる。
 男の子の目が沙凪をにらんだ。口がかっと開く。
「お前のせいだあ!」
 人間の声とはまったく別種の、地響きにも似た音が発せられた。
 耳を塞いでも鼓膜に突き刺さってくるおぞましい叫びだった。頭蓋骨をしめつけられるような痛みが走る。沙凪は頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。
 目ではっきり分かるほど、窓ガラスが震えている。
 沸騰する水槽の水は、次第に燃えるような赤色に発光し始めた。
 肩をつかまれ、沙凪は我に返った。男に引っぱられ、走りだす。
 次の瞬間、何かが砕ける音がした。
 振り向くと、破裂した水槽からあふれ出た赤い水が、滝のように流れ落ちてくるところだった。
 男も気づき、スピードを上げる。沙凪はなんとか転ばないように、必死に男についていく。
 音は聞こえないのに、水が床を叩く震動だけは、走っている足の裏にもしっかり伝わってきた。
 水はすさまじい勢いで教室の床に広がっていく。大きな机やイスが水に押し流される。水槽の後ろにダムでもあるみたいに、どれだけ水が落ちても勢いが衰えることはなかった。
 教室を飛びだし、廊下を走る。
 すると突然、男の子の叫び声が途切れた。ふたりは思わず足を止める。
 恐ろしいほどの静寂が訪れた。
 水が落ちる震動も感じない。
 自分の荒い呼吸と心音だけが、不規則に重なり合っていた。
「嫌な予感がするぞ」
 男の言葉を待っていたかのように、教室から黒い塊があふれ出てきた。廊下の反対側の壁に激突してばらばらに散ったそれは、おびただしい数のイミューンだった。
 イミューンの大群に背を向け、一目散に逃げる。
 文字通り廊下を埋め尽くすイミューンは、地鳴りのような足音を響かせながらふたりに押し寄せてくる。
「どうするんですか!」
「どうもできねえだろこの数は!」
 今回ばかりは男も策がないらしく、後ろも見ずひたすら走る。でも廊下はまっすぐな一本道で、これまで横道のひとつもなかった。このままじゃ、いずれ追いつかれてしまう。
 その時、沙凪の目に、手洗い場の下の戸棚が飛びこんできた。あれくらいのサイズなら沙凪でも開けられるかもしれない。思いつくと同時に、飛びついていた。
 男が何か言った気がしたが、戸を開く音にかき消される。
 木製の引き戸は思ったよりもずっと軽かった。
 暗い棚の奥にひそんでいたイミューンが、いっせいに振り返る。
 ぞっとした瞬間、中からイミューンが飛びだしてきた。凍りついた体が横に吹っ飛ばされる。
 床に倒れた沙凪の目に、戸棚から出てきたイミューンが、やはり勢い余って反対側の壁に激突するのが見えた。おたがいの体が絡み合って、なかなか動きだせないでいた。
 沙凪に覆いかぶさるようにして床に手をついていた男は、すぐさま立ち上がり刀を抜く。しかし男は戸を背に、刀でイミューンを牽制することしかできない。
 両側をイミューンにはさまれ、進むことも戻ることもできなくなっていた。
「言い忘れたけどな、扉はむやみに開けるんじゃない」
 沙凪に向けられた皮肉のはずだが、男自身のうかつを恨むような響きが強かった。
「こうなった以上やるしかない。お前、どうにかしろ」
「え……ええっ?」
「時間は稼ぐ。あいつらまとめてなんとかできる方法を考えろ」
 無茶振りにもほどがある。第一、これだけの数のイミューンを相手にどうやって戦うというのだ。
 まごついていると、男に怒鳴られた。
「嘘でもいいからできると言ってみろ! そうすりゃ少しはできる気になる!」
「は、はいっ」
 沙凪が返事をすると、男は飛びかかってきたイミューンに斬りかかる。それを合図にイミューンがいっせいに動きだした。左右からイミューンの壁が迫ってくる。
 男が弾き飛ばしたイミューンの爪が、沙凪の頭の上をかすった。ひゅっと恐怖でのどが引きつり、全身から血の気が引く。
 恐怖で立ち上がれない。関節が震えて、体がばらばらに崩れ落ちそうになる。
「吹っ飛ばすとか落とすとかなんでもいい! 急げ!」
 男に急かされ、沙凪は体を縮こまらせたまま耳を塞ぐ。
 集中しろ。とにかく考えるのだ。
 この数の敵をいっぺんに倒せる方法。例えば、もっと大きな武器をだして男に渡す。具体的には何がいい? 巨大なハンマーとか。バカ言うな、漫画じゃないんだ。あるいは、大きな岩を頭上にだしてまとめて押し潰す。でもこれじゃ男や自分を巻きこみかねないし、道を塞いでしまう。床に穴を空けるのも同じ危険がある。あとは、あとは……。
 突如、目の前に男の体が降ってきた。バランスを崩した男は近づいてくるイミューンを蹴飛ばし、すぐに体を起こし臨戦態勢を整える。
「早く、しろっ」
 男の目には一切余裕がなく、額にはびっしりと汗が浮いていた。こうしてもたもたしている間も、男は消耗していくのだ。
 ダメだ。どう考えたって、この数のイミューンを相手に勝てるはずがない。男が倒れたら、沙凪だけでここを切り抜けることができるか? もっと無理だ。考えはどんどん悪い方向へ転がり落ちていく。
「もういい! あれ使え!」
 しびれを切らした男が頭上を指さす。視線を上げた沙凪の目に、オレンジの断面が飛びこんできた。
「あ、あれを、どうするんですか」
「こいつら押し流すんだよ、他にあるか!」
 そうか、倒すのが無理でも、逃げられる程度に引き離せばいいのだ。
 やるしかない。
 涙をこらえ、なかばヤケクソで目を閉じる。
 あちこちに散っている集中力をかき集め、必死にイメージを結ぶ。蛇口の上についたバルブの冷たさや固さを思い浮かべるのだ。自分の手がそれをひねる感覚を思いだす。
 回れ、回れ、回れ、回れ、回れ、回れ。
 祈るように念じると、頭上でごうごうとすさまじい音がした。見上げると、蛇口の大きさよりも太い水の柱が噴きだしている。もっと。もっと早く。
 沙凪は壁に手をついて立ち上がると、手洗い場からあふれた水が一筋、流れ落ちてきた。
「オジサン!」
 上を見た男はすぐに状況を理解し、沙凪のそばへ駆け寄ってくる。
 ごうごうと音をたてる水は勢いを増し続け、流し一面が幅の広い滝のようになった。滝の下敷きになったり、床に広がる水の勢いでイミューンが少しずつ押し流されていく。
 滝の裏側を進んだふたりは、さっき沙凪が開けた戸の中に逃げこんだ。
 戸の中は一段高くなっていたが、水位はあっという間にひざまで上がってきた。このままではここもすぐに満ちるだろう。水は沙凪が想像した以上の勢いになっていた。もう水を止めた方がいいかもしれないが、走りながらでは集中できない。
「扉だ!」
 男の声に顔を上げると、戸の奥に、あの白い両開きの扉がぼんやりと輝いていた。
 水を蹴散らしながらふたりで夢中で走る。
 ほとんど倒れこむようにして扉を開けた。ホッとしたのもつかの間、行き場がなくなった水がどんどんたまり、白い階段を満たしていく。
「閉めろっ」
 男が左の扉についたので、沙凪は右の扉を押した。水圧で重たくなった扉はなかなか動かない。左の扉を閉めた男が沙凪を手伝い、やっと両方の扉が閉まった。
 ふたりはしばらく肩で呼吸をしながら扉にもたれた。階段の下から三段まで水に浸かっていたが、それ以上、水位が上がってはこない。
 垂れた髪を耳にかけようとした手が震えていた。ここに来てから怖いことばかりだ。なんでこんなめにあわなきゃいけないんだろう。
「ちょい、休憩だ」
 水から上がったところに腰を下ろした男は、つなぎのポケットからタバコをとりだした。くしゃくしゃになった箱から一本抜いてくわえる。
 沙凪の中にもやっとしたものがこみ上げる。我慢しようかとも思ったけど、考えただけで寒気がした沙凪は、意を決した。
「ぁ、あの……」
「ん?」
「すみません。私、タバコ、ダメなんです」
 自分でも呆れるほど弱々しい声だった。
 しばし考えた男は、少し階段を上がったところに座り直し、火をつけた。
「すぐ済む」
 鼻と口から煙を吐きながら言う。
 沙凪は渋々、できるだけ距離をとってしゃがみこんだ。戦ってくれているのだからこのくらい許すべきだと自分に言い聞かせ、吸い終わるのを待つ。
 白い階段なのに、タバコの煙ははっきりと見てとれた。
 たゆたう煙を見ていると、脳裏に、ヨーグルトのような甘く煙たいにおいがよみがえってきた。距離は十分離れているのに、煙が口や鼻から入りこんできて、粘膜に染みつき茶色くなっていく気がする。胸がむかむかしてきた。
 やめて、やめて、やめて――
「やめて!」
 声がフロアいっぱいに反響すると同時に、突風が吹いた。体があおられるほどの強い風が、下から上へ吹き抜ける。
 一瞬で通りすぎた風に、乱れた髪を直すことも忘れて沙凪は凍りついた。窓もないのにいったいどこから吹いてきたのか。
 男は無表情で沙凪をじっと見下ろしていた。とり落としたタバコが階段の上でくすぶっている。
 やがて男は立ち上がり、タバコをかかとで踏み消した。一瞬だけ沙凪をにらみ、階段をのぼり始める。
 男の視線は痛かったが、沙凪は少しだけホッとしてあとを追った。

つづく

Photo by Victor あず吉 あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ

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