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【長編小説】清掃員の獏(14)

前回

5

 しばらくすると、空澄は手招きして歩き始めた。
「どこへ行くの?」
「彼を迎えに行かなきゃ」
 暗闇の中、ぼんやりと光って見える空澄の背中を追いかける。歩くのが速い空澄に置いていかれないように、沙凪はたまに早足になったり小走りになったりする。空澄は、沙凪がギリギリついてこられる速さを保って歩き続けた。
 しばらく歩くと、暗闇の先が白くかすみ始めた。空澄はその手前で足を止める。
「彼が必要。沙凪だけじゃここから出られない」
 空澄が横にずれて道を開ける。ここからは沙凪ひとりで行くということだ。
「大丈夫。ここで見てるから」
 長いトンネルの出口のような真っ白な光に向かって、沙凪は進んでいく。
 

 光の向こうは、病院だった。長いまっすぐな廊下の左右には、一定間隔で扉が並んでいる。何もかも色を失うような白さだが、不思議とまぶしさは感じない。
 違和感があった。いつもより遠くまで見える。視界の位置が高いのだと気づくと同時に、体が勝手に動いた。沙凪の意志とは関係なく、足がどんどん廊下を進んでいく。だがあせりや恐怖はなかった。ガラスの部屋の時のように体が乗っ取られたわけではなく、別のだれかの体に沙凪の意識が入りこんだ感じだ。歩きながらバインダーの書類を確認している腕は、自分とはまったく違う。太くて、血管が浮いている、男性のものだ。
「うりゃあ!」
 右ももの裏に何かが刺さった感触があった。
 驚いて振り返ると、あのくせっ毛の男の子がいた。
「こら大翔ひろと
 隣に立っている父親と思しき男性に咎められても、大翔と呼ばれた男の子は意に介さず「必殺、噛みちぎり攻撃だよ」とにこにこしている。五歳くらいだろうか。手に持った恐竜のおもちゃを掲げている。どうやらこれで刺されたらしい。
「不意打ちは卑怯だろ」
 視界の主が大翔の頭を小突いて笑う。その穏やかな声は、今とはかなり印象が違うが、神谷のものだ。
 ずいぶん懐いているようで、大翔は足元からまっすぐこちらを見上げてくる。
「ねえねえ、お母さんは? また検査?」
「もう終わってると思うんだけどな。そろそろ戻ってくるんじゃないか」
 言い終わらないうちに、大翔の「あっ!」という声に遮られた。パタパタとスリッパの音を響かせて廊下を走っていくと、向こうからやってきた車イスの女性に飛びつく。
「お母さん!」
「もう、病院で大きな声だしちゃダメだってば」
 細い腕で大翔をひざの上に抱き上げた女性が、優しく微笑む。骨と皮しかないほどやせている。廊下と同じく色のない肌は、少し動かしただけで引きつれて裂けてしまいそうなほど乾ききっていた。
 それでも、女性の胸に顔をうずめる大翔も、大翔を抱きしめる女性も、ふたりとも笑顔で満ちていた。
 突然、視界が光で満ちて、一瞬何も見えなくなる。あたりを見回そうとしたが、体の感覚も視界と一緒に消えていた。
「急いで!」
 だれかの声とともに、慌ただしい足音がいくつも重なって聞こえてくる。
 次第に光が弱まり、視界が戻ってきた。廊下を走っている。
「先生は直接、手術室に向かうそうです!」
「道を空けてください!」
 同じような格好をした看護師ふたりと一緒に、ストレッチャーを押して走る。ストレッチャーにはさっきの母親が横たわっていた。意識がないらしく、酸素マスクを着けた顔はさらに色をなくしている。
 エレベーターにストレッチャーごと乗りこんで、下の階のボタンを押す。
「それ、お母さんなの?」
 はっとその場にいた全員が息をのんだ。
 廊下に大翔が立っていた。ストレッチャーをじっと見つめ、手は服の裾のあたりを強くにぎりしめている。
「先行って」
 閉まるボタンを押しながら、エレベーターから出た。
 エレベーターに向かってまっすぐ突っこんでくる大翔を捕まえる。
「お母さん!」
 なんとかして逃れようと暴れる大翔を、ひざ立ちになって無理やり抱き止める。エレベーターの扉が完全に閉まると少し勢いが弱まったので、両手で肩をつかんで正面から顔を見る。
 大翔は泣きだす寸前だった。必死に涙をこらえようと歪ませた唇と目尻が震えている。
「いいか、大翔。お母さんはこれから手術を受ける。終わるまでは会えないんだ」
「なんで? この間もやったばっかりなのに」
「急にまたやらなきゃいけなくなった」
 それがどういう意味なのか、大翔にも分かったのだろう。フッ、フッ、と小刻みに鼻を鳴らし、イヤイヤするように首を振る。
「お父さんと一緒に待っててくれ。終わったらすぐに呼ぶから」
 大翔はうつむいて、ついに泣きだしてしまう。震える小さな肩から手を離し、頭をなでてあげる。
 突然、大翔が走りだした。
 とっさに手を伸ばしたがつかみそこね、指先を袖がすり抜けた。スリッパを脱ぎ捨て、廊下を駆けていく。
「待て、大翔!」
 ふいを突かれた上、しゃがんでいたせいで出遅れた。廊下を走りながら、視界はせわしなく周囲を見回す。
 ようやく追いついた時、大翔は靴下のまま螺旋階段を駆け下りていた。
「走るな! 急いだって今は会えないんだ!」
 追いかけてきた声に気づいた大翔が、大きく跳んだ。止める間もなかった。
 二段飛ばして、着地の瞬間、体が前に倒れる。
 そのまま頭から階段を転げ落ちていく。
 体が打ちつけられるたび、耳を塞ぎたくなるような重たく鈍い音と振動が響いた。
 手すりにぶつかってやっと止まった大翔は、体を折り曲げた体勢のままぴくりとも動かない。
 白い階段に、鮮やかな血が広がっていく。
 まばたきする一瞬、視界が光で遮られた。
 大翔が病室のベッドに寝かされていた。顔は、面影も分からないほど腫れ上がっていた。頭は包帯で覆われ、首はコルセットで固定されている。かすかに曇る酸素マスクだけが、彼がまだ生きているのだと教えてくれた。
 ベッドのかたわらに立って、しばらく大翔の痛ましい姿を見つめ続ける。
 強い後悔と罪悪感で胸の奥が焦げついていた。どれだけ深呼吸しても吐きだすことができない痛みと息苦しさに、手が震える。
 奇跡的に無傷だった左手の上に、自分の手を重ねる。手の平にすっぽりおさまってしまう小さな手をにぎり、深く息を吸う。
 視界が闇で覆い隠される。
 目を開くと、おもちゃであふれた子ども部屋にいた。
 天上にはりついたレールでは宙吊りになった電車が走り、床の上にはブロックを積み上げた街ができていた。恐竜の人形がその街を背に、クマのぬいぐるみと戦っている。
 暖色系の明かりに包まれたその部屋の中心に、大翔はいた。母親に抱かれ、幸せそうに目を細めている。顔には傷ひとつない。母親も健康的なはりと赤みのある肌をしている。おそらくそれが入院前の元気な頃の姿なのだろう。
 こちらに気づいた大翔が満面の笑みを浮かべた。
「あっ、兄ちゃんだ」
 母親の腕から下りて駆け寄ってくる。
 目線を合わせようとしゃがんだら、大翔はそのまま胸に飛びこんできた。首にしがみつく細い腕の柔らかい感触に、決心がぐらぐらと揺らぐ。
「何して遊ぶ?」
「帰るぞ」
 大翔の顔から笑顔が消える。なぜそんなことを言うのか分からず、きょとんとしている。
「ここにいちゃいけない。これは夢なんだ」
 大翔の顔にみるみる拒絶が浮かび上がり、あとずさっていく。母親は息子を守るように、大翔を自分の脚の後ろへ隠す。
「やだ。お母さんと一緒にいる」
「それは本当のお母さんじゃない。この部屋も、全部夢だ」
 色々と言葉を変えて説得を試みるが、大翔は母親から離れようとしない。むしろ、言葉を重ねるほど強くすがりついていった。
 徐々に声があせりやいらだちを帯びてくる。それでもしばらくは辛抱強く言葉をかけ続けた。しかし大翔はかたくなに、目の前の母親こそが本物だと言いはった。話を聞き入れることそのものを拒否していて、何を言っても言葉が届かない。
 いよいよ我慢しきれなくなって、大翔の腕をとった。
「お母さんは死んだ。今すぐ目を覚ませばまだ顔が見られる。これが最後なんだぞ」
 大翔の顔が凍りついた。やがて、見開かれたその目が怒りに染まっていく。
「嘘つき!」
 何が起きたのか分からなかった。
 大翔が叫ぶと同時に、突風が起きて体が突き飛ばされた。
 背中が部屋の壁を突き破り、闇の中へ投げだされる。勢いは止まらず、自分が出てきた壁の穴がどんどん遠ざかっていく。
「大翔!」
 何度も名前を呼び、引き止めようと叫んだ。
 しかし部屋の中で母親の腕に抱かれた大翔に、もうこちらの声は届いていなかった。顔を寄せ、この上ない幸せに満ちた笑顔を母に向けている。
 完全に部屋の光が見えなくなったあと、周囲に残ったのは暗闇だけだった。上下も分からず、体はふわふわと浮いている。体を動かしても、真っ暗なので移動しているのかどうかもよく分からない。宇宙はもしかしたらこんな感じなのかもしれない、そんなことを思いながら、何もない空間を漂い続けた。
 どれくらいそうしていたか分からない。
 遠くの方から、何かが聞こえた気がした。
 最初、それはあまりに小さくて、自分の鼓動と見分けがつかなかった。しかし数秒のうちに近くへ迫ってきた。音というよりも不規則な震動に近い。何もないはずの暗闇が崩れ、ちぎれ、ばらばらになっていくのを肌で感じた。
 突然、目の前が光で埋め尽くされた。
 天井があった。窓、そしてベッドまで、白い部屋だ。
 だるい体を起こし、ベッドから足を下ろす。歩こうとしたが、力が入らず床に倒れた。
 ベッドに手をついて体を起こす。体が信じられないほど重たかった。床に触れる足の裏の感触が妙に新鮮に感じられる。もしかしたら、とても長い時間眠っていたのかもしれない。
 音を聞きつけた看護師が病室に入ってきた。
「えっ、嘘、神谷君?」
 看護師に抱き起こされ、ベッドに腰を下ろした。看護師は体の具合を尋ねているようだが、うまく言葉が頭に入ってこなかった。
 壁についたスピーカーでだれかと話をした看護師が、病室を出ていこうとする。
 思うように動かない手でなんとか看護師の腕をつかんだ。
「大翔は」
 看護師の口を開きかけたまま固まる。こちらを見る眼差しに、同情が浮かんだ。
「ほんのちょっと前まで、頑張ってたんだけどね」
 体中の力が抜けていく。
 目の前がかすんで、視界がぐるりと回転しながら闇に包まれた。

つづく

Photo by Victor あず吉 あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ


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