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【長編小説】清掃員の獏(15)

前回

 目を開けると、沙凪の体に戻っていた。
 自分の腕が、さっきと比べてずいぶん細く華奢きゃしゃに見える。左手の薬指には指輪がはまっていた。
 あたりを見回すが、闇に覆われているのは変わらない。ただ体は浮かず、足の裏には地面のような感触がある。どうやら元の場所に戻ってきたようだが、光のトンネルはなくなっていた。
 今のは、きっと神谷の記憶だ。今まで神谷の目を通して見ていた痛みが、まだ胸に残っていた。
 悪夢というくらいだから、常に怖い何かに追い回されたりするのかと思っていた。けれど、大翔の悪夢は幸福だった。自分の大切なものだけを集めたせまい部屋。そこに閉じこもって、つらい現実とは無縁の時をすごしたいと願っていた。
 主の記憶や願望が強く現れた夢の世界に踏みこむということは、その人の一番深いところに触れることだ。無断で人の心を覗き見し、目覚めるために必要なヒントを捜す。場合によっては、その人が本能的に拒んでいるものを突きつけなければいけない。いくら夢から抜けだすためだと言っても、本人が望まなければ、そもそも出口へはたどり着けない。
 人の夢に入ることがあんなに過酷だなんて、思わなかった。
 夢の世界に入れたら楽しいだろうなんて、なんてひどいことを神谷に言ってしまったのだろう。
「準備はできた?」
 暗闇の中、空澄の穏やかな顔がぼんやりと光っている。
「私、どうすればいい?」
「ただ信じればいいの」
 確かに神谷は、とっつきにくい人間だ。横柄で、口が悪くて、乱暴で、沙凪を荷物か何かのように扱うこともしばしばだった。
 さっき沙凪が、神谷の目を通して体験した記憶を思い返す。おそらく、大翔の命が尽きたことで、神谷は夢から弾きだされたのだろう。
 もしそうなら、神谷は沙凪に嘘をついていたことになる。
 神谷がこの夢から抜けだすためには、沙凪が目を覚まさなければいけないと言った。でも沙凪が死ねば、神谷は夢から出られるのだ。何もせず、沙凪が死ぬのを待つという選択肢もあったのに、沙凪を出口に導くことを選択した。神谷にとってはトラウマと言ってもいい夢の世界で、沙凪のために戦ってくれている。それだけで、理由は十分だ。
 ただ信じればいい。
 沙凪は深呼吸する。
「探したよ。沙凪」
 突然聞こえた声に驚き、沙凪は後ろを振り返る。
 いつの間にか、暗闇の中に深水が立っていた。柔らかい笑みを浮かべ、沙凪とおそろいの指輪を着けた左手を差しだす。
「戻っておいで」
 穏やかすぎて、体温が感じられない声音だった。
 それだけで沙凪が大人しく戻ってくると確信している、その落ち着き払った傲慢さが、今なら嗅ぎ分けられる。さまざまな思惑を何層にもぬり重ねて、感情を覆い隠す分厚いつらの皮が見える。
 かつての深水は、こんな表情はしなかった。感情は余すことなく全身から発露はつろさせていた。自分の言葉で相手が何を感じるかなんて、まったく頓着とんちゃくしない。そのかわり、だれよりも正直だった。ちょっとナルシストの気があったけれど、そのうぬぼれた優しさがやっぱりカッコよくて、だからみんな深水のそばにいたがったのだ。
 それがいったい、いつから変わってしまったのだろう。彼ならもっと輝かしい生き方ができたはずなのに、金のために女の機嫌をとるほどにまで落ちぶれてしまった。
 以前の沙凪なら、条件反射で彼の手をとっていたかもしれない。だが今は、沙凪にすがりつこうとする憐れな男にしか見えなかった。
「あなたのことがずっと好きだった」
 落ちぶれたことにすら気づけないほどに、大好きだった。
 他のものはすべて失っても惜しくないと思えてしまうほどに、夢中だった。
「でも今の私が信じてるのは、あなたじゃない」
 パキンッ。
 音とともに、薬指のしめつけが消えた。見ると、指輪に大きな亀裂が入っていた。沙凪は反対の手で、指輪を指から外す。
 深水の表情が揺らぐ。
「何をしてるんだ、沙凪」
 沙凪は答えない。この男に言うべき言葉は、もう何もない。
 つまんだ指にちょっと力を入れただけで、指は粉々に砕け散った。指輪の残骸は光の砂になって落ち、闇の中にとけて消えた。
 すると、深水は言葉にならないうめき声をもらし始めた。髪が乱れるのも気にせず頭をかき乱し、苦しむように体をねじってもだえる。指の間から、血走った目が沙凪をにらむ。
「沙凪、沙凪、沙凪ああっ」
 音というよりも波動に近い声が、空気を震える。
 暗闇に亀裂が走った。亀裂は深水を中心に放射状に音をたてて広がっていく。クモの巣のように細かいひびが頭上まですべての闇を包みこんだ時、震動がぴたりと止まった。
 闇が粉々に砕け散る。
 周囲が突然明るくなり、暗闇になれていた目がくらんだ。乾いた風に乗って、細かい砂粒が頬に当たる。
 目の前には、生物の息遣いひとつ感じられない荒地が広がっていた。塔の外に出たのかと思ったが、あの時と違って、錐のように細い岩山がいくつもそそり立っていた。空には分厚い雲がたちこめ、そのすき間からは赤くよどんだ空が覗いている。
 土煙の向こうで、深水がよろよろと頭をかかえていた。獣のようなうなり声をもらす深水の顔は、乾いた大地と同様にひび割れている。一歩足を動かすたびに、卵の殻のように皮ふがぱらぱらとはがれ落ちた。その亀裂から、イミューンと同じ黒い霧がもれ出ている。
 霧の量はどんどん増していき、やがて風に逆らい深水の体をとり巻く。黒い膜に遮られてほとんど姿が見えなくなった時、クジラのような咆哮が上がった。
 沙凪は思わず耳を塞ぐが、叫びは容赦なく鼓膜を揺さぶる。
 深水の周りを包んだ黒い霧はどんどん膨張し、あっという間に五階建ての建物くらいの高さにまで立ち昇った。やがて霧が凝縮し、形がはっきりしてくる。
 霧が晴れると、腹ばいで地面に手をついた巨大なイミューンが現れた。
 ビル解体に使う鉄球ほどある大きな頭部には、やはり顔がない。それなのに沙凪をじっと見ていることだけはわかった。
 腰から下は人の姿をしていない。背中と尻のあたりには、魚のヒレに似たものが生えている。黒い骨のようなものがまっすぐ上に向かって伸び、先端の方はカーブして垂れ下がっている。それがクシの歯のごとく並んでおり、根元のあたりが膜でつながっている。
 今までのイミューンとは明らかに違う。
 ダメだ、逃げられない。
 とっさに、叫んでいた。
「神谷さん!」
 ビシッ、と頭上の何もないところにひびが入る。次の瞬間、鏡が割れるような音をたてて砕けた。破片が降り注ぎ、沙凪はとっさに頭を守る。
 割れた空間を突き破って、神谷が現れた。
 沙凪の頭上を飛び越えて着地した神谷は、深水だったものをにらむ。
「こいつが親玉か」
 足元に落ちた破片が宙に浮き、神谷の現れた穴に戻っていく。穴の向こう側にはさっきまでいたガラスの部屋が見えた。穴が埋まると、何もなかったように割れ目もきれいに消えた。
「神谷さん、私……」
 いざ神谷を目の前にすると、さっき見た記憶がよみがえって胸が詰まってしまう。何も知らずにひどいことを言ってしまったのを謝ろうと思っても、なかなか言葉が出てこない。
「細かいことはあとだ」
 神谷は沙凪の方を見ずに応える。もしかしたら、沙凪が全部見たことをもう知っているのかもしれない。
 確かに沙凪は、神谷の目を通して何が起きたのかを知った。けれど、神谷自身が感じた痛みがどんなものだったかは分からない。分かるなんて言えっこない。
 だからこそ、沙凪は目を閉じて深く息を吸った。
 神谷の前に光の筋が伸び、螺旋を描きながら落ちていく。ふくらんだ光が蒸発すると、むき身の刀が地面に突き刺さった。
 振り返った神谷に、沙凪は宣言する。
「早くここを出ましょう。一緒に」
 神谷の頬が、少しだけ上がったように見えた。
 神谷が刀を引き抜く。
「下がってろ」

つづく

Photo by Victor あず吉 あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ


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