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【長編小説】清掃員の獏(13)

前回

 彼女に反対されたことで、むしろ決心が固まったというのは皮肉だったけど、それからの毎日はとにかく幸せだった。
 深水の希望で、入籍と転居は結婚式の翌日に合わせることにした。意外なほどロマンチックな提案に、また彼の新しい一面が見られた気がした。こうやってひとつずつ、おたがいの知らないことを減らしていけばいいのだ。一緒にいられる時間はたっぷりある。
 深水は仕事が忙しく、会えるのは基本的に週末だけだった。それなのに、手続きはほとんど深水がやってくれていた。仕事柄こういう手続はなれていると言っていたけど、どうやら深水なりのこだわりがあることが大きいようだ。会場の広さ、披露宴の料理や飾りつけをどうするか、何人くらい招待するのか、ふたりで何度も話し合った。
 てっきり男性は式に興味がないと思っていた沙凪は、一度、なぜそこまで一生懸命になるのか尋ねてみた。すると深水は何を今さら、と笑った。
「女の子にとって結婚式って、とっても大事なものなんでしょ?」
 だから妥協をするべきじゃないと言うのだ。
 自分が選んだ相手は正しかったのだと言ってやりたくなった。だれに、と浮かんだところでやめた。深水のいるところで、もう彼女のことは考えたくなかった。
 かといって深水も沙凪もそこまで金銭的に余裕があるわけではない。沙凪は社会人になってからこれまでボーナスにはほとんど手をつけずにきたので、貯金が二百万円ほどあった。深水の蓄えも大体同じくらいらしい。とはいえ将来のために少し残しておきたいので、予算と理想をギリギリすり合わせる作業だった。
 休みを削って頭を悩ませてくれている深水のために、沙凪は週末、料理を作りに行った。平日の夜の深水は帰りが遅く、夕食はコンビニ弁当やファミレスで済ませることが多い。だから週末に深水の家に行った沙凪は、作り置きで冷蔵庫をいっぱいにすることを自分の仕事にした。実際、深水も喜んでくれて、週末に深水の部屋を訪ねればきれいになくなっているものだから、作りがいもあった。
 苦労したし、意見が食い違って少し気まずい空気になることもあった。けれどなんとか式のことや新居への転居の段取りが整ったところで、久しぶりに外で食事をした。
 その帰り道、急に雨が降ってきた。沙凪が持っていた折りたたみ傘をさし、ふたり肩を寄せて歩く。
「懐かしいね」
 きょとんとする沙凪に、深水はひとりで語り始めた。
「小一の時さ、俺の傘に入れてあげたことあったでしょ。君、ちょっと照れた顔してさ。それがすごくかわいいな、と思ったんだよ」
 沙凪は、深水が言葉を重ねるごとに気道が閉じていくのを感じた。
 数秒の沈黙の後、酸欠のコイのように口をパクパクさせながら、ようやく声を絞りだした。
「それ、私じゃない」
 深水の顔が凍りつく。
 だがすぐに笑みでとりつくろい、おどけた調子で言った。
「えっ、嘘でしょ? 本当に? 本当に本当? あれ沙凪じゃなかったっけ? うわー、嘘でしょ、すっごい恥ずかしい……うーん、でもその勘違いのおかげで沙凪に興味を持ったんだから結果オーライ、ってことじゃダメかな? ダメ? 怒ってる?」
 スイッチを切り替えるみたいにころころ変わる深水の表情に押されて、沙凪もつい笑顔を作ってしまう。「ひどいよ」とか「結構ショック」とか言いながら、必死に笑い飛ばそうとした。
 けれど沙凪の中では、猛烈な勢いで悪い想像がふくらんでいった。これまで小さくてつかみきれなかった、いくつもの小さな違和感がよみがえってくる。
 小一の時から好きだった。プロポーズの時に深水はそう言った。その言葉を聞いた時、おかしいと思ったのだ。その頃、沙凪と深水の間に記憶に残るようなできごとはひとつもない。言葉を交わしたかどうかも怪しい。
 でも、深水は沙凪と結婚したいと言ったのだ。今現在の沙凪に指輪をくれたのだ。目を見てプロポーズしたのだ。それはすべての疑問を押しのけるだけの力があった。そんな細かいことは気にせず、深水の気持ちを受けとって素直に喜びたかった。
 そうやって、色々な違和感や疑問や不満をしまいこんできた。それもこれも、深水が沙凪を好きでいてくれたからだ。自分を好きでいてくれる深水を困らせたくない。沙凪が神経質になっているだけかもしれない。へたなことを言って深水を怒らせて、見捨てられたりするのが怖かった。
 もちろん、深水がそんな素振りを見せたことは一度もない。それなのに、沙凪は本気でその可能性を恐れていた。
 深水が沙凪なんかを好きになるはずがないと、心のどこかで思っていたのかもしれない。深水が口にした沙凪をほめる言葉は、どれもあまりに大げさだった。照れるのを通り越して、居心地が悪かった。ぶかぶかのブランド服を着せられているみたいな、沙凪の身には余る言葉。たくさんあるストックの中から、沙凪に近そうなものを引っぱりだしてきただけみたいな。
 どうしてよりによって、彼女なのだろう。他の子であれば、単なる記憶違いだと自分に言い聞かせることができたのに。
 もしかして、深水が好きだったのは、沙凪ではなかったのか?
 そんなことを考えていたら、いつの間にか夜が明けていた。
 よくない想像で頭はオーバーヒートを起こしていた。ぼんやりして頭が回らない。
 沙凪は深水に電話をかけた。何を話せばいいのかは分からなかったけど、今の沙凪の中にあふれているもやもやしたものを、深水なら全部吹き飛ばしてくれるのではないかと思った。そうしてくれたら、沙凪は今度こそ、深水を心の底から信じてともに人生を歩んでいける気がした。
 けれど、深水は出なかった。
 少し時間を置いてもう一度かけたら、今度はコールすらせずに自動音声に切り替わった。
 お客様のご都合により、おつなぎできません。
 朝だから忙しいのかもしれない。電車に乗っているのかも。そう思おうとした。
 なんとか体を動かし、やっとのことで職場にたどり着いたが、仕事なんか手につかなかった。普段はどこまでも鈍い上司にすら顔色が悪いと言われ、早退させられたから、よほど様子がおかしかったのだろう。
 昼下がりの街を歩きながら、そういえば今日はまだ何も食べていないことに気づいた。しかし空腹もどこか他人事のように感じていて、意識はひたすら上の空だった。
 もう一度、深水に電話してみる。
 お客様のご都合により、おつなぎできません。
 嫌な胸騒ぎがして、そのまま深水のアパートに向かった。
 インターフォンを鳴らすが応答はない。当然だ。仕事に行っている時間なのだから。
 いったん帰ってから、夜にまた来よう。そう思ってアパートから駅に向かって歩き始めた時、ゴミ捨て場に目が吸い寄せられた。
 カラスよけのネットの下、半透明なゴミ袋の中、何色かの四角が透けて見えていた。青、黄緑、オレンジ、ピンク、水色……保存容器のフタの色だ。開かなくても分かる。青は小松菜の中華炒め。黄緑はトマトとズッキーニのラタトゥイユ。オレンジはビーフシチュー。
 沙凪が深水の冷蔵庫に入れた作り置きの品々が、容器ごとゴミ袋にまとめて捨ててあった。
 

 電話が鳴った。
 深水かと思って急いで出たら、会社だった。始業時間をとうにすぎていたことに気がついて、とっさに体調不良だと嘘をつく。上司は連絡を先にしてほしいと小言をひとつこぼしたが、昨日ことがあるので、沙凪をいたわる言葉をかけてくれた。
 昨夜はずっと深水の部屋の前で待っていたけど、帰ってこなかった。何時間もドアの前にいたら他の住人に気味悪がられたので、いったん引き上げた。
 何度も深水に電話しているけど、やはりつながらない。お客様のご都合により、おつなぎできません。いつかけても同じメッセージが繰り返されるだけだった。
 深水の勤めている会社に電話をかけた。ワンコールで女性が応答する。沙凪はとっさに、自分の会社名を名乗っていた。
「営業の深水さんはいらっしゃいますか?」
 本当は、深水が出社しているかどうか直接尋ねたかった。婚約者だと伝えればもしかしたら教えてくれたかもしれない。でも、なぜか正直に言うのが怖かった。
 だけど、電話の女性の答えは、そんな沙凪の憶測を遥かに超えていた。
「申し訳ございません。深水はすでに退職いたしました」
 頭が真っ白になり、体から力が抜けていく。
 やっとのことで言葉をつなぎ、いつ辞めたのかを聞きだした。
 半年前。
 深水から初めて連絡が来るより、もっと前だ。
 電話を切った手が震えていた。
 そんなはずはない。
 だって深水は、平日は仕事で忙しいから会えないと言ったのだ。話に出てくる同僚の名前もずっと同じだし、転職したのなら沙凪に言わないはずがない。そんな、大切な話なら……。
 沙凪は結婚式のパンフレットを引っぱりだしていた。ふたりで何度も話し合って、最初に下見にいった式場に決めたのだ。チャペルの真っ白な両開きの扉の前で撮った写真は、沙凪のスマホの待ち受けになっている。
 電話に出た式場の担当者は、確認にやたら時間をかけたあと、戸惑いと憐れみに満ちた声でこう言った。
「結婚式も、披露宴も、そのようなお名前でのご予約はございません」
 そんなはずはない。
 何かの手違いだ。もしかしたら、入金したばかりだから確認が遅れているのかもしれない。確かにお金は払ったのだから、契約がないなんて、そんなはずはないのだ。
 いくらすがっても、相手の答えは変わらなかった。
 次に沙凪は、新居の管理をしている会社に電話した。
「その部屋ならすでに別の方が入居済みです」
 そんなはずはない、はずなのに。
 ダメだ。細かい話は沙凪では分からない。手続きは全部、深水に任せていたから。書類とか、支払いとか、そういう細かいところは、全部、深水に。
 今まで自分が立っていた場所が、足元から崩れ落ちていく。
 式や新居への引っ越しに必要な費用は、ふたりでだし合った。沙凪も、貯金はほとんどすべてをだしきっていた。そのあたりでおさまるように披露宴のプランなどを必死に調整したのだ。沙凪が深水にお金を渡して、そこに深水の分の資金を足して契約してきてくれる。そういう手はずになっていた。新居についてもそうだ。敷金礼金と初月の家賃と管理費、沙凪の負担分は深水に渡してある。
 沙凪はもう一度、深水に電話した。
 お客様のご都合により、おつなぎできません。
 一度切って、もう一度かけ直す。
 お客様のご都合により、おつなぎできません。
 お願い、出て。声を聞かせて。何も心配いらないと言ってくれるだけでいいから。
 お客様のご都合により、おつなぎできません。
 式場も、部屋探しも、下見は一緒に行ったけれど、そのあとの手続きや契約は全部、深水任せだった。沙凪は、契約書を目にしたこともない。
 知らないうちに涙があふれ出ていた。涙を拭うと、薬指にはまった指輪が顔に触れた。シルバーメッキの安っぽい指輪。
 沙凪と深水のつながりを証明できるものは、この指輪だけだった。
 式の準備で舞い上がってすっかり忘れていたが、まだ婚姻届をもらいに行ってすらいないのだ。
 とめどなく目から涙があふれてくる。何も考えられなかった。嗚咽おえつがのどにつかえて、うまく息ができない。酸欠のせいか指先がぴりぴりする。そのうち、寒くもないのに体がガタガタ震えだした。
 自分の涙でおぼれ死にそうになった沙凪は、かつての親友に電話をかけていた。
 早く出てほしいけど、出てほしくない気もした。
 今さらどのつらを下げて彼女と話せばいいのか分からない。
 でも、他に頼れる人は思いつかなかった。
 コールはいつまでも続いた。

*   *   *

 気づけば沙凪は、何もない暗闇の中に座りこんでいた。深水もいない。自分の影も見えず、地面も空もすべてが黒で埋め尽くされている。たださっきと違うのは、足と尻の下には地面らしき感触があった。
 そう。夢の中での沙凪は、沙凪ではなかった。
 扉を開けて記憶の部屋に入った沙凪は、彼女になる。過去に沙凪が彼女にした仕打ちを、彼女になりきって体験していたのだ。
「言って。私はだれ?」
 沙凪の前には、あの女の子が立っていた。沙凪は立ち上がって彼女の近くへ行く。
 さっきまでは沙凪の姿をしていたが、もう違う。手足はすらりと長く、背は沙凪より拳ふたつ分、高い。凛とした立ち姿は何にも負けない力強さを感じさせる。
空澄あすみ
 彼女――空澄がうなずいた。何かを待つように、沙凪の目をまっすぐに見つめている。
「何をどう言ったらいいか、分からないんだけど……」
 彼女が微笑む。
「私だけを見て、思うまま口にだせばいいの」
 懐かしい空澄の声。沙凪が落ちこんだ時に寄り添ってくれる、穏やかな声だった。
 沙凪はたっぷり時間をかけて深呼吸した。体のこわばりが消えるまで、何度も。
「空澄に嫌われたくなくて、ずっと本当のことが言えなかった」
 小さい頃から、彼女にはひどいことをしてばかりだった。傷つけたことを素直に謝ることも、苦しんでいる時に支えてあげることもできなかった。
 それどころか、自分じゃなくてよかったと思ったり、彼女に同情したりする瞬間さえあった。その原因が自分にあることを忘れたふりができてしまう自分が、どうしようもなく嫌いだった。
 沙凪さえいなければ、彼女があんな思いをすることもなかった。だから本来、あの苦痛は沙凪が受けるべきだったのだ。
「いつも空澄に負い目を感じてた。全部自分のせいなのに、いつの間にかそれを空澄のせいみたいに感じるようになって、勝手に嫉妬して、八つ当たりして、また空澄を傷つけた」
 空澄は正しかった。それなのに、忠告を無視して、突き放した。深水の裏切りに気づいた時にはもう、空澄とのつながりは切れてしまっていた。
 すべてやり直したい。彼女との出会いから全部。
「許して……ごめんなさい」
 聞きとれないほど涙に揺れたが、空澄はすべてを受け止めるように微笑み、沙凪を抱きしめた。
 慰めるように、いたわるように、背中をなでてくれる。
 沙凪が困ったり、助けを求めたりするといつもこんな顔で沙凪に声をかけてくれた。長い腕で包みこんでくれて、沙凪の不安や後悔を優しくとかしてくれた。
 どうして自分はこんなに大切なものを突き放してしまったのだろう、とまた後悔があふれてくる。
 空澄の胸に顔をうずめた沙凪は、何度も「ごめんね」と繰り返し続けた。

つづく

Photo by Victor あず吉 あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ


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