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【長編小説】清掃員の獏(12)

前回

 深水と再び出会ったのは、社会に出てから数年後のことだった。沙凪が働いている文房具メーカーに、広告代理店の営業として深水は現れた。
 廊下の向こうから歩いてくる深水を見つけた沙凪は、一瞬夢でも見ているんじゃないかと自分を疑った。顔を見たのは数年ぶりだ。高校生の間は一度も言葉を交わしたことはなかったから、きっと自分のことなど忘れている。そう決めつけて、うつむいてすれ違おうと歩速を速めた。
 だが深水は、沙凪の正面で立ち止まり顔を覗きこんだ。
「新島さん、だよね?」
 沙凪が震える声で肯定すると、深水はにっこり笑った。顔だけでなく、名前まで覚えていてくれたことに、沙凪は喜びで体が浮き上がりそうだった。深水を案内していた会社の先輩に対して「僕と新島さん、小学校から高校までずっと同じ学校だったんです」と説明するのを聞いていたら、なんだかとても親しい存在だと言われているような気がして、どんどん体温が上がっていった。
 用事を済ませた深水を見送る時、また少し話ができた。偶然だね、懐かしいな、そういえばあんまりしゃべったことなかったね、よかったら今度ご飯でも行こうよ。そんな決まりきったやりとりだったが、一対一で会話するのが初めてだった沙凪には、それだけでも幸せだった。
 一応連絡先を交換したが、もう二度と会うことはないだろうと思っていた。連絡先を教えてもらえただけで天にも昇るような気持ちだった沙凪には、自分から連絡する勇気はない。深水のような男が、こんな冴えない女にわざわざ連絡してくるはずもない。
 でも、もしかしたら。
 そんな淡い期待が胸のどこかにあるだけで十分、幸せだった。
 だが半年くらい経ってから、突然、深水から電話がかかってきた。
 驚きでまともな言葉をしゃべれなかった沙凪は、言われるまま、週末に会う約束をしてしまった。
 夢のような時間だった。会って、話して、食事をして、駅前で別れる。それだけなのに胸はドキドキしっぱなしで、ろくに目も見られなかった。緊張と喜びで、何を話したのかほとんど覚えていない。これは本当に現実か? と帰り道でさっきまでのできごとを思い返してみれば、この上ない幸福に顔がにやけるのを止められなかった。
 それがきっかけで、ふたりはたまに会うようになった。そのたびに沙凪はガチガチになっていたけど、それでも深水は色々な話を沙凪に持ちかけてくれ、少しでも沙凪が笑えば、深水も嬉しそうに笑ってみせた。深水の笑顔を見たい沙凪はだんだん笑うようになり、気づけば、普通に会話できるようになっていた。
 そして、会うようになってから三カ月後、ことは急激に進んだ。
「小一の時から、ずっと好きだった。結婚してほしい」
 改まった様子でそう言った深水は、指輪を差しだした。指輪はメッキのリングに小さなガラスをはめこんだだけの安物だったが「式までにはきちんとしたのを用意する」とはにかむ顔がたまらなくかわいかった。
 とはいえ、あまりの急展開に息が止まるほど動揺していた沙凪は、ひとまず答えを待ってもらうことにした。深水もすんなり了承してくれた。
 沙凪はまず、一番の親友に相談した。
 昼下がりのカフェで、テーブルに向かい合って座る。深水とつき合っているということはだれにも話していなかった。彼女も例外ではなく、深水の名を口にしただけでとても驚いていた。いつも知らないことを教えてもらう側の沙凪にとって、彼女が驚く顔を見るのはとても新鮮だった。
 だが、沙凪が深水とのめをあらかた話し終わった頃になっても、彼女の表情は変わらず、むしろこわばっていった。彼女は目を閉じて考えを整理すると、ゆっくり言葉を選びながら沙凪に言った。
「やめた方がいいよ」
 意味が分からなかった。
 何かの聞き間違いであることを願って「え?」と聞き返した声も、のどの奥でかすれてほとんど音にならなかった。
「だって、あの深水だよ?」
 真正面から見つめる彼女の眼差しは、真剣そのものだった。
 なぜそんなことを言うのだろう。あの深水だから、結婚するのに。彼女には祝福して欲しかったのに。
 彼女は小さく息を吸った。
「彼、タバコ吸うでしょ? 沙凪の家でも吸う?」
 なぜ彼女がそのことを知っているのだろう。「どうなの?」ともう一度尋ねられ、沙凪は黙ってうなずく。
「どのくらい?」
「分かんない。一日一箱、くらい?」
「やめてって言ったことある?」
「……あるよ」
「やめてくれた?」
 初めから答えを知っているような言い方だった。
 頼んだその時は消してくれたけど、翌日には何もなかったように吸っていた。体に悪いとか、壁紙が汚れると退去する時に大変だとかさまざまな理由を使ってみたけど、どれもいまいち深水には響かなかった。
「でも、吸う時は、換気扇のそばに行ってくれるようになったよ」
 彼女は深水のことを知らないのだ。確かにタバコについてはもう少し歩み寄ってほしいと思うところはあるけれど、人間なんだから完璧じゃない。深水がどれほど沙凪を大事にしてくれているかを知れば、きっと考えも変わる。
 しかし彼女は、それを説明する間を与えてはくれなかった。
「沙凪がずっとあいつのことを好きだったのは知ってるけど、でももう少し冷静に考えなきゃ。だってたった三カ月で何が分かるの? 沙凪はあいつのこと、どれだけ知ってるの?」
 どきりとした。沙凪の深水への想いを知られていたこともそうだが、心の奥に隠れたほんのわずかな不安を言い当てられたからだ。
 深水は、沙凪のことを知ろうとたくさん質問をした。家族のこと、仕事のこと、何から何まですべて話した。だけど逆に深水自身のこととなると口が重たかった。深水が語るのは、昨日はこの映画を見て、今日は同僚のだれと食事をしてといった、この数日間の仕事や余暇のこと。でも沙凪はそれでもよかった。彼が毎日どんなふうに暮らしているのかを知れるだけで満足だった。普段彼がどんな仕事をして、同僚とはどんな会話をして、休日は何をしているのか、知っている。それで十分ではないか。それをどうして彼女はそんなふうに言うのだろう。
 彼女はゆっくり続ける。
「高校の時、私のクラスメイトで深水とつき合ってる子がいるって話したじゃない? あの子、最終的にどうなったか知ってる?」
「なんで今、そんな話をするの?」
 声が震える。続きを聞くのが怖かった。
「その子、大学行って数か月もしないうちに休学しちゃったの。必死に勉強して入学したのにだよ? 話聞いたら、その子、妊娠してたの。深水の子。だからその子は深水と結婚することも考えてたんだけど、深水のやつ、ろす話しかしなかったんだって。その子がどうしたいのか聞きもしないで。しかもその言い方が、父親が自分だってことはだれにも言うなとか、金はないから頼られても無理とか、自分のことばっかり」
「きっと、怖かったんだよ。だってまだ十代だったんだから……」
 あまりに苦しい擁護だった。彼女は沙凪の言葉を無視して続ける。
「深水のやつ、それからは連絡しても無視して、一度もその子と会わなかったの。その子、それですごく傷ついてさ、堕ろしたあと体調崩しちゃって大学休むしかなかったの。まあ、強い子だったから、翌年復学してちゃんと卒業したけどさ、しばらく男のこと信じられなかったって言ってた。しかも噂だと、深水のやつ、その子から逃げる時、他に女の家に転がりこんでたらしいんだよ。それって怖かったとかで済む話かな? 十代だからとか言う以前に、人間としてちょっとヤバくない?」
 沙凪はむっとする。いくら深水のことが嫌いだとしても、それは言いすぎだ。
「噂でしょ? 深水君はそんなことする人じゃない。私はだれより近くで深水君を見てる」
「でも、妊娠させて逃げたことは本当だよ。その話も初めて聞いたんでしょ?」
 沙凪はついに返す言葉がなくなった。
 彼女は沙凪の手を両手で包み、前のめりに顔を覗きこむ。
「沙凪が結婚するのはもちろん嬉しいよ。だけど、もう少しだけよく考えてほしいの。本当に、あいつでいいの?」
 沙凪は目を伏せた。うっかりその目を見てしまうと、深水への心が揺らぎそうな気がした。
 部屋の角にたまって拭きとれないほんの小さなホコリのような不信感を、目ざとくつつかれた。彼女にだけは全貌が見えているような気がして、恐ろしくなった。
 どうして彼女はこんなに心配してくれるのだろう。どうして他人の結婚にこんなに必死になるのだろう。
 ふと、沙凪の中にひとつの仮説が浮かんだ。
 彼女を力いっぱいにらむ。
「深水君のこと好きなんでしょ?」
「何を言ってるの、沙凪?」
「私にとられるのが嫌なんでしょ? なんでも私より上手だったから、私に先を越されるのが嫌なんでしょ?」
 もし彼女が本気になれば、深水の心も簡単に射止められてしまうに違いない。それは常に沙凪の胸の奥にあった不安だった。だから彼女には、初恋の相手が深水だとは教えなかった。自分の恋が実らないのは我慢できるが、彼女に奪われるのだけは嫌だった。でも、今回ばかりは勝った。深水の方から求婚してきたのだ。彼女はなんのことか分からないという顔をしているが、きっと高いプライドで必死に演技でもしているのだろう。
「沙凪、ちょっと落ち着いてよ」
「指図しないで。私を見下したり、操ろうとするのはやめて」
 いつまでも後ろにくっついて歩いてくるだけのバカだと思ったら大間違いだ。もう大人なのだ。だれと結婚するかくらい、自分で決める。
 沙凪の言葉に驚いていた彼女だが、いつしかその目から力が消えていた。
「沙凪、それ、本気で言ってるの? ずっとそんなふうに思ってたの?」
 沙凪が答えないでいると、彼女は目を伏せ、うつむいた。何を言うかとしばらく待っていると、突然彼女は立ち上がった。
「分かった。もう何も言わない」
 沙凪が座っていた上、ただでさえ背の高い彼女がハイヒールをはいていたせいで、沙凪は天上の神からにらまれたような錯覚を覚えた。大変なものを怒らせてしまったと怖くなる。でも同時に、その背徳感に興奮している自分もいた。
 彼女が去っていってから、沙凪は自分が本当の意味で大人になれたような気がした。
 その帰り、沙凪は深水にプロポーズの返事をした。

つづく

Photo by Victor あず吉 あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ

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