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【長編小説】清掃員の獏(8)

前回

 扉を閉めた途端、コンクリートの崩れる音や柱の咆哮は、嘘のように消えた。
 そこは夜の砂浜だった。沙凪がひとりで歩いた砂浜と同じに見える。
 イミューンや顔のない人が出てくる様子はなかったので、いったん休憩をとることにした。
 月はないのに、月明かりがあるみたいに明るかった。夜空とは黒いものだと思っていたけれど、無数の星が浮かぶこの空は、深い藍色をしていた。
 浜を吹き抜ける涼しい風が髪をなでる。波の音も心地いい。
 沙凪はスニーカーと靴下を脱ぎ、両足を放りだした。久しぶりに無防備になった足に、さらさらした砂の感触が気持ちいい。ふくらはぎをもんだり、足の指を縮めたり伸ばしたりして、体をほぐす。ずっと歩き通しで、いくら夢の中とはいえ、少し疲れがたまっていた。
 この時になって沙凪は、自分がまったく空腹を感じていないことに気づいた。
「眠ってる体の腹が減っていないってことだ」
 島の反対側を向いていた男が教えてくれる。
「夢で数日経ってても、現実じゃ数時間しか経ってないっていうのはよくある。あとは、寝ててもちゃんと生きていけるだけの栄養がもらえてるかだな。どっちにしろ、今のところは夢から覚める前に体の方が死んじまう可能性は低いってことだ」
 眠っていても栄養を与えてもらえるって、どんな環境だろうか。
 その思考は男の声に遮られた。
「見たくなかったら振り向くな」
「え?」
 思わず振り向くと、男がTシャツを脱いでいた。
 慌てて顔を前に戻す。
 なんでそう、いちいち紛らわしい言い方をするんだ。っていうかなんでこっちがドキドキしなきゃいけないんだ。
 背後で水の音がした。
 徐々に音が離れていき、沙凪はちょっとだけ首を回してみる。砂の上につなぎが脱ぎ捨てられていた。
 腹まで水に入って、Tシャツを洗う男の背中が見える。肩甲骨のあたりが、大きくうっ血していた。イミューンに噛まれた左肩は、まだ傷口が生々しい。他にも、チューブが絡みついていた跡や、切り傷やアザが体中にある。
 予想以上に痛々しい男の背中を見た沙凪は、胸が苦しくなった。それに比べて、沙凪はほとんどケガをしていない。何度も転んだり、転げ落ちたり、痛い思いはたくさんしたのに、体に残る傷はなかった。それどころか、洋服に目立った汚れすら見当たらない。もしかしたらそれは夢の主だからなのかもしれないが、あまりの差に、どうしても後ろめたさがこみ上げてくる。自分が受けるはずだった傷を、男に肩がわりさせているような気がしてしまう。
 それから男は体についた汚れや血の塊を洗い流す。やはり痛むらしく、傷に海水がかかると顔をしかめる。
 そんな男に、沙凪は背を向けた。男はきっと見られたくないだろうと思ったから。
 やがて水をかき分ける音が近づいてくる。
 Tシャツを絞り、水が砂に落ちる音。
 シャツを広げて水気を切る音。
 ジッパーが上がる音。
 どうしても耳が音を追いかけてしまう。
「なあ」
「はいっ!」
 驚きでおかしな声になってしまった。
 男は気にせず、砂の上に腰を下ろした。髪の毛をわしわしとかき回し、水気を飛ばす。肩から背中にかけて、つなぎが水を吸って変色していた。体を拭けるものがないから、諦めてぬれたまま着たようだ。
「お前、動いている時は何を考えてる?」
「動いている時、と言いますと?」
「例えば最初の部屋。ぬれたハンカチを拾っただろ。あの時は何を考えてた?」
「えっと、ほとんど無意識だった気がします。ハンカチを見たら自然に手が伸びてた感じです」
「そのあと逃げたのはどうだ、何を感じた?」
「うーん、恥ずかしいような、傷ついたような、怒ってるような……」
「何から逃げてたんだ」
「声、かな? だれかの気配っていうか、視線?」
 自分でももどかしいほど、うまく言葉が出てこない。確かにその時、何かを感じて行動したはずだ。だけど、それが何だったのかと聞かれると、うまく言葉にできない。胸に湧き上がった感情を言葉に置き換えようと頭に持っていくが、途中でしぼんで消えてしまう。
「その後、あの子と会ったか?」
 女の子も深水も、そういえばしばらく姿を見ていない。
「お前があの子なら、どうする?」
「なんで私なんですか?」
 沙凪が首を傾げると、男は目を丸くした。
「あの子はお前だろ?」
 今度は沙凪が目を丸くする番だった。
 男が続ける。
「最初は半信半疑だったが、教室で見た時には確信した。あの子はお前だ」
「でも、私はここにいるのに」
「過去の自分が案内役として登場するのはよくあることだ。いや、あの子の場合は案内というより語り部に近いか」
 確かに、あの女の子が現れると何かが起きたし、一番助けが必要な時に限って、二、三歩離れて傍観ぼうかん者に徹していた。沙凪はてっきり、あの子が夢を出る鍵になるのだとばかり思っていた。それが、まさか過去の自分だったとは。
 沙凪は思わず自嘲した。
「矛盾だらけですね、この夢」
 この世界は沙凪の夢のはずなのに、起きる不思議なできごとに、主である沙凪自身が一番驚き、戸惑っている。思うようにならない。
「確かに、こんな変な夢は初めてだ」
 男が小さく笑い、つなぎのポケットからタバコをとりだす。ふやけてくしゃくしゃになった箱から一本抜きだし、吸えるかどうか観察する。口にくわえたところで思いだしたらしく、動きを止めた男が沙凪の方を伺う。
 少し迷ったが、沙凪は口角を上げた。
「どうぞ」
 沙凪の言葉に、男が意外そうな顔をする。
「だけど、お前」
「大丈夫ですから」
 そう笑って見せる。
 しばらく考えた男は、沙凪との間を空けた。手で風を遮りながら、ライターを何度もカチカチやってようやく火がつく。肺のすみずみまで満たすように深く吸いこんだ煙を、夜空に向かって吐きだす。風に流れた煙は、沙凪とは反対方向に流れていった。
 火をつけた時、煙たいにおいが一瞬だけ沙凪の鼻をかすめたが、それ以降はあまり気にならなかった。男のタバコは、沙凪の記憶の中にあるタバコのにおいとはまったく違う。冷静になれば、なんてことはない。
「タバコってぬれても吸えるんですね」
「まずいがな」
 男の表情を見る限り、本当にまずいらしい。ならなぜ吸うのだろう。男がちょっとだけかわいく思えて、少し気が緩んだ。
「あの、オジサンって」
「どさくさに紛れて変な呼び名、定着させてんじゃねえよ」
 タバコをくわえたままもごもご言った男は「神谷かみやだ」と続ける。
 男の声が、じんわりと沙凪の中に染みこんでくる。
 神谷。
 口の中で繰り返してみる。自然と口角が上がっていた。
「神谷さんって、今までも私みたいな人の夢に入ったことあるんですよね?」
「ああ」
「何人くらい?」
「まあ、何人かだ。そんな大した人数じゃない」
「募集でもしてたんですか?」
「はぁ?」
 大きな声をだした男の口から、タバコが落ちかける。
 夢に閉じこめられた本人は眠っているので当然、動けない。となると、だれかが神谷に連絡をとって、来てくれるよう頼む必要がある。だから、探偵事務所みたいな感じで募集をしたのではないかと思ったのだ。夢のことならお任せあれ、みたいな。
 沙凪の想像を聞いた神谷は、呆れて首を落とす。
「お前それ本気で言ってんのか」
「なら、どうやって夢に閉じこめられた人を見つけるんですか?」
 神谷が煙を吐きだす。長く白い煙が風に押し流されて消えていく。
「昔は、看護師をやってたんだよ」
 意外すぎる答えに、沙凪は反応できなかった。看護師という言葉と神谷があまりに遠くて、頭の中でなかなか結びつかなかった。
 それを見透かした神谷が「似合わなくて悪かったな」と顔をしかめる。
「たまに、昨日まで普通に話してたはずの入院患者が、眠ったまま目を覚まさなくなることがあったんだ。色々検査しても原因が分からなくて、医者もただ起きるのを待つことしかできない。そりゃそうだ、本人は夢を見てるだけなんだからな」
 当直の晩、神谷はそういう患者の病室へ行き、夢に入った。悪夢を見ているかどうかは体に触れればすぐに分かる。触れた瞬間、神谷もその夢に引っぱりこまれるからだ。
「毎日顔を合わせてるから、どういう人かは分かってるし、気がかりなこともなんとなく見当がついた。なんつうか、顔見知りの悩み相談してやるくらいの感覚だったんだよ」
 枕元に立ち、眠る人に触れる神谷の姿を想像し、沙凪は思わず微笑む。
「なんか、ばくみたいですね」
「お前、絶対バカにしてんだろ」
「そんなことないです。ほめたんです」
 ため息をつくみたいに煙を吐きだした神谷は、どこか遠くへ視線を向けた。
「まあ、他人の夢を引っかき回して自己満足してたんだから、似たようなもんか」
 夢を出られれば、神谷は患者のベッドの横で目を覚ます。
 それからしばらくすると、患者も目を覚ます。本人はいつも通りの朝を迎えただけだが、病院はちょっとした騒ぎになる。患者の身に何が起きていたのか知りたがり、医者はまたさまざまな検査をするが、当然、結論は出ない。あの患者たちに何が起きたのかは、神谷しか知らない。
「あの頃の俺はこの力を、治療法のひとつみたいに思ってたんだ。助けられる力があるのに何もしないってのも寝覚め悪いし。どうせ目が覚めたら夢の中でのことは全部忘れてるから、多少の無茶もできたしな」
「ま、待ってください」
 沙凪は思わず神谷の言葉を遮った。
「え、私、目が覚めたら神谷さんのこと覚えてないんですか?」
 動揺する沙凪を、神谷は鼻で笑う。大したことじゃないとでも言うみたいに。
「経験あるだろ。夢を見てたってことは覚えてても、内容はまったく思いだせない夢。あれと一緒だ」
 夢の中でのできごとは、次へ進む活力になる。そのかわり、どういう経緯でその思いにたどり着いたのかは思いだすことができないのだという。神谷のことも含めて。
 沙凪はしばらく言葉が出てこなかった。
 そんなの、理不尽すぎる。これだけ苦労して沙凪を救おうとしてくれているのに、目が覚めた時にその感謝の気持ちを忘れてしまっているなんて、神谷があまりに報われない。
「なら、どうして私を助けてくれたんですか?」
 患者でもない。おそらく会ったことすらない。おまけにここでのことはすべて忘れてしまう。それなのに、どうして神谷はここまでしてくれるのか。
「お前が自分で言ったんだろうが」
「え?」
「死にたくないって言っただろ。だからだ」
 思い当たるまで、少し時間がかかった。
 塔の外でイミューンに襲われた時に、沙凪が思わず口にした言葉だ。
 そんなことで、と思わずにいられなかった。
 だって、あの瞬間、沙凪は諦めたのだ。
 恐怖で足がすくみ、自分にはこの状況を打開する力がない、もうダメだと思った。だれかに助けを求めようと思ったわけではない。あれは悲鳴にすらなれなかった、ただの泣き言でしかなかった。
 だが神谷は、そんな泣き言をこれまで放さずにいてくれた。死ぬのが怖いという思いを沙凪から引きだし、ここまで引っぱってきてくれた。神谷がいなければ、沙凪はとっくにどこかでへたりこんだまま動けなくなっていただろう。
「あと、忘れてるかもしれないが、お前が起きなきゃ俺もここから出られないんだ。だからさっさと全部思いだして、出口を見つけてくれ」
 照れ隠しのように早口でつけ足した神谷は、短くなったタバコを人差し指と親指で器用につまみ、一気に吸った。先端が強く光り、灰がフィルターギリギリまで迫ったところで海に放り投げた。水に落ちた吸殻がジュッと小さな音をたてる。
「少し休め。あとでまた走り回ることになる」
 少し沙凪から距離をとった神谷が、砂の上で横になる。
「でも、意識を失ったら夢が終わっちゃうんじゃないんですか?」
「ここじゃ眠ろうとしたって眠れないから大丈夫だ。横になって目を閉じるだけでも疲労はとれる。休めるうちに休め」
 今の、ちょっと看護師っぽい。と思ったけど、神谷はもう休む体勢に入っていたので、言わないでおいた。
 神谷はしばらく頭の置き位置を探してもぞもぞしていたが、横向きで自分の腕を枕にする形で落ち着いた。たがいに背中を向け合った状態になる。
 もうしばらく海を見ていたかった沙凪は、波に向かって足を伸ばす。かかとに触れた水は冷たかった。足だけなら気持ちいいが、神谷はこんな水温でよく頭まで潜れたものだ。
 空を見上げれば、空一面にスプレーで吹きつけたように細かい星が散りばめられている。テレビや理科の教科書でしか見たことがない満天の星空に、沙凪は思わずため息をもらした。
 いつだっただろうか。こんな空を一度だけ見たことがある。
 今と同じように足を水に浸けて、砂浜で夜空を見上げた。
 だがその時の自分は、その光景を楽しめなかったような気がする。何かが重たく胸にのしかかっていて、星に心の逃げ場を求めていた。
 そんなことを考えていたら、急に不安になってきた。
 沙凪がこういう感覚になると、大抵何かが起こる。
 もし今、イミューンが来たらどうすればいいだろう。神谷を起こすより先に襲われたらどうしようもない。起きたとしても武器がない。新しく用意しておいた方がいいだろうか。同じもので大丈夫か。あるいは何か神谷の要望を聞いて、新しいものをだした方がいいのだろうか。
「不安なら何か話せ」
 神谷の背中が言った。表情を見たわけでもないのになぜ分かったのかと戸惑っていると、神谷が「風が冷たい」とつけ足した。
 そう言われてみると、さっきよりも風が強くなった気がした。沖合の方もうねっているように見えなくもない。沙凪の気持ちの揺れが、世界に影響しているのだろうか。
「どうせ本気で眠るわけじゃないから聞くくらいできる。そのかわり、相槌は打たねえぞ」
 神谷のぶっきらぼうな物言いが、沙凪には嬉しかった。
 おそらくこれが、神谷なりの距離のとり方なのだろう。たくさん質問をするし、口では思いだせと言うが、沙凪の記憶の内容そのものには決して踏みこんでこない。走り回らされた文句はこぼしても、沙凪の記憶やそれが元になったできごとに対して口をだしたことはない。
「思いだしたんです。時々出てくるあの男の子。私、あの子のこと好きがだった」
 明るく快活で、茶目っ気があり、動物が大好き。よくいたずらして先生にしかられていたけど、そういうやんちゃなところも魅力になってしまう子だった。いつでもクラスの人気者で、沙凪にとっては高嶺たかねの花だった人。
「どんなやつだ?」
 後ろから聞こえた声に、沙凪は思わず笑みをこぼす。
「相槌はしないんじゃなかったんですか?」
「そういう重要な話は別だ。で、そいつがどうした」
「つき合ってる、気がします」
「別れたのか?」
 失礼極まりない発言だが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「もし今も続いてんなら、もう少しいい思い出が夢に出るもんだろ」
 そう続いた神谷の言葉にも、沙凪は納得してしまう。
 深水とは小学校から高校まで一緒で、同じクラスになることも何度かあった。だが、会話したのはほんの数回。それも必要に迫られた時に、最低限の会話だけだ。高校にいたっては、一度も話さなかった。それなのに、深水とつき合った記憶はそれ以降のものだ。そして、深水と一緒にすごした断片的な記憶があるだけで、その後どうなったのかも分からない。
「今でも好きか?」
 おたがいの姿が見えないおかげで、そんな恥ずかしい質問も、冷静に考えられた。
「正直、分かりません」
 初恋の相手だから当然好きだという気持ちはあるが、それはどちらかというと、ときめきに近い。クラスで隣の席になっただけで、その日は興奮で勉強が手につかなくなるような甘酸っぱさ。手が届かないと分かっているから好きなだけがれることができる。そういう片想いの感覚が強い。何より、つき合っているという感覚が湧いてこなかった。自分があの人気者と並んで歩いているところが想像できない。
「まあ、思いだしただけでも進歩だ」
 神谷はそう話を打ち切った。妙な引き際のよさに、沙凪の中で好奇心がうずきだす。
「神谷さんにはそういう人いないんですか?」
「なんでそうなる」
「色々経験してそうな物言いだったので、気になって」
「うるせえ」
 神谷はそれきり黙ってしまう。ちょっとからかいすぎたかもしれない。
 再び訪れた静寂に、沙凪はもう一度空を見上げた。
「神谷さん」
 返事はない。それでもよかった。むしろ、ひとり言くらいに思ってくれた方が話しやすい。
「私、神谷さんの力、すごいと思います。人の心……か、頭か分からないけど。その人の深いところに入りこんで、苦しんでるものをとり除くなんて、すごいです」
 言ってから急に恥ずかしくなってしまい「私みたいな鈍くさいやつとは大違い」とつけ足した。
 もしもこの夢から出られたら、沙凪は神谷に感謝を伝えることができなくなる。でも今ここで、先にお礼を言ってしまうのもやっぱり違う気がする。だからせめて、神谷がいたからここまで来られたのだということだけは、言っておきたかった。

つづく

Photo by Victor あず吉 あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ


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