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【長編小説】清掃員の獏(7)

前回

 流れ出てきた冷気が、沙凪の足を包んだ。
 部屋の中は完全な闇だった。廊下から射すわずかな明かりのおかげで、床があるということだけは分かる。それ以外は闇に飲みこまれて何も見えない。
 胸の奥の方で、度胸がくしゃくしゃに縮み上がっていく。
 沙凪は慌てて、かぶりを振った。
 嘘でもいいから、できると言え。
「大丈夫。できる」
 小さくつぶやき、部屋に足を踏み入れる。
 部屋の中は、冷凍庫のように冷えこんでいた。肌がぴりっとはり詰める。吐きだした息が白くなった。
 いよいよ廊下の光が届かないところまで来ると、命綱が切れたような心細さが襲ってきた。足をだした先に、床があるのかさえ分からないのだ。怖くて怖くてたまらない。
 ふと、部屋の奥で何かの気配を感じた。ビクッと沙凪は動きを止める。
 耳をすますと、空気の抜けるようなかすかな音が聞こえた。
 何かいる。
 恐怖と緊張で、震えが止まらない。
 沙凪が体を動かすのに合わせて影が揺れ、何かがかすかに光った。
 ゆっくり近づくと、足元で光を反射するいくつかの線が浮かび上がってきた。医療用のチューブか何かのようだ。ツタみたいに床や壁をはうチューブを目でたどっていく。部屋の奥に行くにつれ、束になり、絡み合っていく。チューブは、部屋の奥にいる何かの息遣いに呼応してかすかに震えていた。
 沙凪は小さくつばを飲みこみ、目を凝らす。
 徐々に暗闇になれてきた目が、チューブの束に埋もれた腕を見つけた。
 それまでの恐怖も全部吹き飛んで、沙凪はその腕に飛びついた。
「オジサン」
 腕は陶器のように冷たかった。
 暗闇の中、手探りで男の状態を確認していく。背を壁に座った男の全身にチューブが絡みついていた。男の体を縫いつけるように、チューブの先端はがっちりと壁や床に埋めこまれている。沙凪がいくら力をこめてもはずれる気配がない。
「聞こえますか?」
 声をかけるが、男は首を力なく垂らしたままだった。
 沙凪は部屋の外を振り向く。廊下にはだれもいないが、目をそらしている間に突然何かが現れても不思議ではない。男がこんな状態では打つ手がないし、何も見えないどん詰まりの部屋には逃げ場もない。
 やはり頭に浮かんだのは「どうしよう」だった。沙凪は男を呼びながらチューブに爪を立てる。あせりがつのり、泣きそうになる。
「お願い、起きて。オジサン」
「オジサンオジサンうるせえよ」
 首を落としたまま、男は「頭に響く」とつぶやいた。すきま風のような弱々しい声だが、沙凪は安堵で頬が緩んだ。
「大丈夫ですか?」
「そう見えるか」
 男の顔についた何かが、わずかに届く光で鈍く光る。それが汗なのか血なのかは分からないが、どちらにせよ男の憔悴しょうすいぶりを表すには十分だった。
「どうやってここに?」
「エレベーターです」
 男の目が開いた。小言のひとつやふたつ言われるだろうと覚悟したが、男は小さく息をついただけだった。あるいは声を荒らげる力もないのかもしれない。
「なら、これもどうにかしてみろ」
 これ、と自分の腕に絡みついたチューブをあごで指した。
 触れていると、男の体に巻きつくチューブは、脈動するように少しずつうごめいているのが分かる。皮ふに容赦なく食いこんでいて、かなり痛そうだ。
 チューブに手を当てた沙凪は、目を閉じる。どのみち暗闇で見えなかったが、その方が集中できる気がした。
 頭にかすみがかかり、神経が水を打つような静けさに包まれる。
 お願い。この人を開放して。
 逡巡しゅんじゅんするような間ののち、チューブが動いた。拘束が緩み、チューブはするする壁の穴に引っこんでいく。
 支えを失った男の体が倒れた。沙凪は男の肩と背中に手を添え、体を起こす。寒さのせいか痛みのせいか、男の体はかすかに震えていた。
「兄ちゃん」
 男の体がこわばった。
 廊下に、さっき待合室ですれ違った男の子が立っていた。遊び相手を見つけたみたいに、期待に満ちた笑みを浮かべている。
「兄ちゃん。遊ぼ」
「近寄るな」
 かすれた声で男の子の言葉を遮る。
 沙凪の手の下で、男の背中が強くはり詰める。慌てて体を起こそうとするが、よろけて再び床に伏せる。
 歩きだした男の子の足が、サッシをまたぐ。
「来るなっ!」
 バンッ、と音をたてて部屋の戸が閉まった。
 射しこんでいたわずかな光が絶たれ、部屋の中が完全な闇に包まれる。
 何が起きたのか分からず、身構える。だけど何も起こらなかった。部屋の中にはふたり以外に何の気配も感じない。
「今のって、お前が閉めたのか?」
「分かり、ません」
 耳のすぐ横から聞こえた男の声に沙凪がそう返すと、男は小さく「そうか」とだけつぶやいた。どこか、男はドアが閉まってホッとしているように感じた。
 ふたりはしばらく、そのままじっとしていた。目がまったく役に立たなくなったせいで、息づかいや衣擦れの音がやけに大きく耳に響いてくる。
「これから、どうするんですか?」
「他に出口はないか?」
「見えませんよ、何も」
 とりあえず壁を伝って部屋の中を調べてみようと、沙凪は壁に手をついて立ち上がる。
 ところが、そこに壁はなかった。
「あぇっ?」
 手が空を切り、そのまま壁があった方に倒れた。肩から一段下に落ちた沙凪は、そのまま腹ばいの状態で坂を滑り落ちていく。
「わ、うあ、わああああっ」
 悲鳴が続かなくなった頃、突然地面が平らになった。勢いがついた体はそのまま数メートル転がって、ようやく止まった。
 あたりは依然、何も見えない暗闇のままだ。
 ようやく体を起こした時、尻をいきなり突き飛ばされた。
「あうっ」
「悪い」
 遅れて滑り降りてきた男は、さほど悪びれた様子もなく言う。
 沙凪は「あー」と「もう」が混ざった不平の声をもらしながら、尻と腰をさする。
「おい」
 男の声で、何かが起きたことはもう分かった。顔を上げる。
 暗闇の中で、ふたつの赤い玉が揺れていた。ふたつ、四つ、六つと、どんどん数が増えていく。ふたりはあっという間に、赤い目玉の群れにとり囲まれた。
「明かりをつけろ」
 男が立ち上がる気配がした。
 沙凪は必死に考える。
 明かり、明かり、明るくできるもの。強くそれを思い浮かべる。
 ひらめきとともに、パチンと上空で強い光が灯った。
 赤い瞳は光にとけて消え、かわりに姿を表したのは無数のイミューンだった。イミューンたちは一様に、暗闇に浮かぶ裸電球をぼんやりと見上げている。
「突っきるぞ。邪魔なやつは肩をねらって突き飛ばせ!」
 言うなり男は駆けだした。手近にいたイミューンにタックルし、その後ろにいたもうひとりのひざを正面から蹴り崩す。
 倒れたイミューンを飛び越えた沙凪は、開いた道を突っ走る。必死に足を動かすことで、恐怖から気をそらす。一瞬でも立ち止まったら、冗談抜きで泣きだしてしまいそうだった。
「ぐぅっ」
 背中の方で男の声がした。手足に数人のイミューンが絡みつき、身動きがとれなくなっている。
 嘘、やだ、ダメ。これじゃまた振り出しだ。
 沙凪は考えるより先に引き返していた。
「ぅ、うわあ、ああ!」
 悲鳴に近い声を上げながら、一番手前のイミューンの肩を両手で力いっぱい突き飛ばした。当たりどころがよかったのか、上体を反らしたイミューンがのけぞり、男の右腕が自由になる。他のイミューンを振り払い、再び走りだした。
 そうしてふたりでイミューンの群れの中をひた走った。戦いは最小限に、イミューンの腕や爪をかいくぐる。どちらかがイミューンに捕まりそうになったら、もう片方が助けに入り、どうにか前へ進み続ける。
 男が倒したイミューンの横を通りすぎようとした時、足首をつかまれた。つんのめりながらもどうにか体勢を立て直したが、すぐさま別のイミューンに髪の毛を強く引かれた。
「放して!」
 気づいて沙凪に近づこうとした男も、イミューンにとり囲まれる。
 その時、地面が震動した。
「動くなっ!」
 男の鋭い声が響く。
 沙凪は、イミューンに体を引っぱられながらも、その場にとどまろうと足をふんばる。
 世界が、変わる。
 沙凪が目の当たりにするのは初めてだったが、すぐに分かった。
 地震とはまったく違う、地面が波打つような揺れだった。揺れは徐々に大きくなり、闇が歪んだすき間から光が差しこみ、混ざり合っていく。
 揺れが止まった瞬間、飛び石のようにふたりの足元だけ残して、床が落ちた。イミューンがいっせいに落下していく。
 自分にまとわりついているイミューンを振り払った男は、残った数人も下に突き落とした。
 丁度最後のひとりが落ちると同時に、細長い帯が等間隔で走る。ブラインドが閉まるようにそのすき間を埋めると、新しい床が出現した。
 暗闇になれていた目に光が突き刺さった。
 薄くまぶたを開け、少しずつ光にならしていく。
 白く光沢を放つ床から視線を上げると、そこにはさっきと同じ病室の扉が並んでいた。
「戻ってきた?」
「とっとと出るぞ、こんな場所」
 安心する間もなく、走りだす。
 また襲われるのではないかと警戒したが、イミューンは見当たらなかった。すれ違う顔のない人たちも、ふたりには興味を示さない。
 沙凪にはむやみに扉を開けるなと言ったくせに、男は目に入った扉は手当り次第に開けようとした。だがどの扉も、壁の一部になってしまったみたいにびくともしない。
「クッソ」
 廊下のすべての扉に拒まれた男は、いらだちまぎれに扉を蹴る。スライド式のはずなのに、蹴られても揺れすらしなかった。
 肩で息をしながら扉に寄りかかった男の顔を、幾筋もの汗が流れ落ちていく。かなり無理をしているはずだ。
 廊下の先は、待合室があった。そっちを見た沙凪は、違和感に気づく。
 広い待合室の真ん中に、螺旋階段がそびえていた。中央に白い柱が通っていて、鉄製の細い手すりつきの階段がそれに巻きついている。さっきはこんなものなかったはずだ。
 けれど、記憶の部屋と部屋をつなぐ階段は常に上を向いている。ならば、ここでも上を目指せばいいのかもしれない。
「あれはどうですか?」
 そう悪くない案だと思ったのだが、男の返事には時間がかかった。
 螺旋階段をじっと見つめた男は、やがて自分自身を納得させるみたいに小刻みにうなずいた。
 待合室を突っきって、階段の下にたどり着く。
 けれどそこまで来て、沙凪の足が止まった。
 のぼれない。
 理由は分からないけど、本能がこの階段を拒絶している。体の芯が震えるほど恐ろしいのに、足の裏が床にぺったりとはりついて逃げることもできない。男になんて説明すればいいだろう。沙凪は横にいる男の顔を盗み見た。
 男も、階段を見上げたまま硬直していた。息をのみ、青白い顔をしている。
 どうして男がこんな表情をするのだろう。
 沙凪の戸惑いは不思議な音に遮られた。
 階段の上の方から、飛行機が低空飛行するみたいな音が近づいてくる。
 次の瞬間、落雷のような衝撃が、天井から床までを貫いた。
 沙凪の口から短い悲鳴がもれる。
 吹き飛ばされた破片や粉塵が弾丸のように降り注ぐ。
 おそるおそる目を開けると、目の前に、黒く太い柱状のものがそびえ立っていた。表面は鈍い光を放っている。粉塵のせいで全体はよく見えないが、床から天井まで貫けるほどの長さがあるようだ。
 ふいに柱が動いた。のっそりと持ち上がり、やがて、先に向かって細くなっていく尖端が、天井の穴に消えていく。床には、原型をとどめないほど押し潰された階段の残骸が散らばっていた。
「あ、あの、これ……」
 声が震えた。
 再び、上の方で空気を震わせる音が響く。
 男が頬を引きつらせた。
「珍しく、意見が合いそうだな」
 走りだした直後、ふたりがいたところに黒い柱が突き刺さった。
 床が跳ねて、内蔵がふわりと浮き上がる。
 こんな大きな相手、逃げる以外に手はない。待合室を引き返し、廊下を走る。
 再び持ち上がった柱は、ふたりを追いかけるように振り下ろされる。砕かれた天井のコンクリートが床を転がりながらふたりに迫ってくる。
 廊下の角を曲がると、イミューンの大群が待ち構えていた。
「邪魔だ、どけ!」
 男が声をはり上げ、スピードを上げる。さっきみたいに無理やり突破するしかない。沙凪もヤケクソでついていく。
 その時、行く手を遮るイミューンの群れに、黒い柱が突き刺さった。ふたりは思わず足を止める。
 柱が持ち上がると、今度は少しふたりに近い位置に落ちてきた。柱はイミューンがいようとお構いなしのようだ。残ったわずかなイミューンがクモの子を散らすように逃げていく。
 柱が床に突き刺さっているすきに、男は横をすり抜ける。沙凪も続いた。
「あっ」
 足を載せた瓦礫がれきが崩れた。そのまま前に倒れ、胸とあごを床に打ちつける。
 気づいた男が急ブレーキをかけて反転する。助走をつけて跳躍すると、天井からぶら下がっていた鉄筋に飛びついた。走った勢いと全体重をのせた鉄筋が、柱にめりこむ。ギザギザに削れた先端が突き刺さり、黒い霧が噴きだした。
 すさまじい咆哮ほうこうが一帯の空気を揺さぶった。船の警笛かクジラの鳴き声に似ているが、どちらでもない。耳をつんざく高音と重低音が同時に鳴っていて、音というより衝撃波に近かった。
 男に抱き起こされ、沙凪は再び走りだす。
「他に出口はあるんですか?」
「分からん」
「でも、白い扉はどこかにあるはずですよね」
 突然、男が歩速を緩めた。
 驚いた沙凪が振り返ると、男は完全に足を止め、後ろを向いていた。
「どこかにあるなら、ここに呼べばいい」
 この状況には不釣合いなほど冷静な声音だった。
 柱の悲鳴のようなものはまだ聞こえていた。傷口から噴きだした霧で、柱の周囲には黒くもやがかかっている。
「少しなら、時間を稼げるかもしれない」
「でも……」
 あまりに無茶だ。コンクリートの天井を豆腐みたいに突き崩す相手に、武器もなしでどう戦うと言うのだ。
 だが男の背中はもう覚悟を決めていた。
「他に方法はない」
 沙凪の返事を待たずに、男は柱に向かっていってしまう。
 柱が身をよじり、刺さっていた鉄筋を弾き飛ばした。鉄筋は、身を屈めた男の頭をかすめ、矢のように壁に突き刺さった。
 迷っている時間はない。もたつくほど、生存の可能性はぐんぐん減っていく。
 沙凪は目を閉じ、一度ゆっくり深呼吸する。
 落ち着け。
 集中しろ。
 扉をここに持ってくるのだ。
 何度も見たあの両開きの白い扉を、頭の中に思い描く。
 ふと、背後で何かの気配を感じた。
 薄いガラスが割れるような音がし、振り返ると、まばゆい光の枠がそこにあった。
 光のベールが空気にとけて消えると、何もなかったはずの壁に扉が現れた。
 なんで。
 それはレバー型のノブがついた一般的な片開きの扉だった。
 深い色の木目が美しく表面を流れ、半円の曇りガラスが埋めこまれている。表面の塗装がところどころはげた金色のノブに触れてみる。侵入を拒むような、鋭い冷たさだった。
 違う、これは私の扉じゃない。
 ドン、と建物が大きく揺れた。
「行け!」
 扉に気づいた男がまっすぐに走ってくる。
「違うんです、これ……」
 言葉に迷っているうちに、男がドアを開けてしまう。向こう側は暗いが、かすかに空のようなものが見えた。
「何してる」
 扉の向こうに片足を踏み入れた男が「早く来い」と腕を振る。背後では、黒い柱が持ち上がり天井の上へ消えていくのが見えた。
 今までの扉とは明らかに違う。
 だけど、今は気にしている余裕はない。
 沙凪は扉に駆けこんだ。

つづく

Photo by Victor あず吉 あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ


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