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【長編小説】清掃員の獏(9)

前回

 横になって目を閉じたが、確かに眠ることはなかった。眠りの手前の穏やかな浮遊感がずっと続いている感じだった。
 体感で数時間休んだあとも、夜は明けず、潮位もまったく変わらなかった。
 浜をずっと進んでいくと、例の扉が現れた。開いた扉の向こうに、上へ伸びる白い螺旋階段を見た沙凪は、ホッと息をつく。ようやく自分が進むべき道に戻って来られた気がした。
 階段をのぼる間、やはり会話はなかったが、以前より気分は楽だった。
 神谷が無言なのは機嫌が悪いのではない。神谷がしゃべるのは、必要な時と、皮肉を言う時と、気を遣う時。それが分かった今、沈黙は苦ではない。
 次の扉は思いの外、早く現れた。
 扉を開けるなり、まぶしさで目がくらんだ。
 薄目で扉をくぐり、少しずつ光に目をならしていく。
 一面真っ青な部屋だと思ったけど、すぐに違うと気づいた。
 天井も壁も床も、すべてがガラスでできていて、その向こうに青空が透けているのだ。足の下を雲が流れていくのが見える。
 棚も、テーブルも、花瓶も、そこに挿した花も、部屋にあるものはすべてガラスでできていた。天井には、部屋の大きさに対して立派すぎるシャンデリアが下がっている。
「女はどうして光りものが好きなのかね」
 神谷は興味がなさそうにテーブルの上の置物を眺める。見ていたのは、手の平ほどの大きさの金魚のガラス細工だった。水から跳ね上がったような体勢をしていて、長い尾ヒレが力強いカーブを描いている。重なり合うウロコの一枚一枚まで丁寧に刻みこまれていて、今にも動きだしそうなほどリアルだった。
「そうじゃない女の人もいますよ」
「指輪もピアスもネックレスもひとつも持ってない女がいるか?」
「指輪は特別ですよ」
「最初の何年かはな」
「何年かで終わっちゃったんですか?」
「お前、本当に失礼なやつだな」
 神谷が沙凪をにらむ。だんだんにらまれるのにもなれてきた沙凪は、笑ってごまかした。
「来たんだね」
 部屋のすみにあの女の子が立っていた。今度はブレザーを着ている。身長はほとんど沙凪と同じにまで成長しており、少し落ち着いた雰囲気を持ち始めていた。
「今までどこにいたの? あれから大変だったんだよ」
 沙凪が近づいてそう言うと、彼女は切なげに笑った。
「それが私の役目だから」
 沙凪には彼女の言葉の意味が理解できなかった。
 聞き返そうとした時、手が何に触れた。
 細長いビンが倒れ、転がり、テーブルの天板からこぼれ落ちる。沙凪が慌てて伸ばすが、指先に当たったビンは回転しながら方向を変え、音をたてて砕けた。中に入っていた淡いピンク色の液体がガラスの床面に飛び散る。
 沙凪は思わず一歩下がった。割れた音と後ろめたさで、心臓がドキドキする。
「何やってんだ、お前は」
 振り返った男が、またか、と言わんばかりにぼやく。
 だが沙凪が謝るより早く、事態は別の「またか」の方向へ進んでいった。
 割れたガラス片の下に広がる液体に小さな波紋が起きた。二重三重に続いた波紋は徐々に大きくなりながら広がっていく。水たまりが広がるにつれ、桃のようにきれいだった色が濃く変色していき、やがて完全な黒になった。
「下がれ」
 水たまりの向こうで神谷が身構える。沙凪は女の子と一緒に数歩あとずさった。
 細胞分裂するようにうごめいた水たまりが一度大きくうねる。
 水しぶきを飛ばして、石の塊が突き出てきた。それは人の頭くらいある拳だった。表面がゴツゴツした大きなフジツボで埋め尽くされている。床に手をついて体を押し上げるみたいにして、水たまりからイミューンが現れる。これまで見たどのイミューンよりも大きい。上背がある上に、ぱんぱんに空気を入れた風船みたいな胴体をしている。頭の形もおかしい。他のイミューンの頭は卵型をしていたが、目の前にいるイミューンはいびつな山型で、肩との境目もよく分からない。
 イミューンがのっそりと沙凪に近づく。太い足が床につくたび、いびつな頭が波打った。
 何か変だ、と思った時には、神谷がもう動いていた。
 死角から接近して足を振り上げる。衝撃でイミューンの肉と髪がぶるんと震えた。いびつな形をしていると思った頭は、ウェーブがかかった髪の毛だったのだ。
 違う。これは、イミューンじゃない。
「待って、神谷さん」
 言い終わらないうちに、何かが視界を横切った。
 ガラスの床に小さな血のしずくが飛び散る。
 神谷が後ろに飛びのく。その頬にはひと筋、裂傷ができていた。
 さっき見たガラスの金魚が、宙に浮いていた。ガラスのウロコを逆立て、威嚇するようにざわざわと波立たたせている。見せつけるみたいに広げた胸ビレの先だけが、赤く染まっていた。
 それを合図に、部屋中のガラス細工が震えだした。初めは風鈴程度だったけど、次第に大きくなり、ガシャガシャと今にもすべてが砕けそうな音になる。
 上を見れば、天井の悪趣味なシャンデリアが大きく揺れていた。揺れた拍子に天井にぶつかり、ガラス飾りがひとつちぎれた。そのまま、まっすぐ女の子の上に落ちていく。
「あっ」
 女の子が声を上げるのと、ガラス飾りが床で砕けたのは、ほとんど同じタイミングだった。女の子はとっさに身を引いたがよけきれず、プリーツスカートの裾が裂ける。
 女の子の顔がさぁっと青くなった。驚きで見開かれた目も、みるみる涙ぐんでいく。
 その途端、沙凪の中でカッと怒りがふくれ上がった。
「ふざけんな!」
 風鈴の大群に負けない大声で、沙凪は怒鳴る。
「この子は素直に謝ってるじゃない。なのになんなのその態度?」
 自分でも聞いたことがないきつい口調だった。体が熱い。言葉が次々にあふれ出てくる。でも何に対して怒っているのかはさっぱり分からない。他人の感情が無理やり注ぎこまれているみたいな感覚だった。
「あんたがどれだけ偉いか知らないけど、他人の人間性を否定する権利なんかどこにもないんだからね」
 なんなの、これ。
 腹話術の人形の中に閉じこめられたみたいに、自分の意志とは関係なく、口が勝手に言葉を吐きだしていく。体がまったく思い通りにならない。
 今までとは違う恐怖に、沙凪の目は神谷に助けを求めていた。
「神谷さん……」
 ようやくそれだけ声にだすことができた。だが神谷も、沙凪の身に何が起きているのか分からず戸惑っている。
 その時、ガラスの金魚が飛び上がった。
 反射的に手を伸ばした神谷が、金魚を床に叩き落とす。
 粉々になった金魚の破片が床に散らばった。
 それと同時に、沙凪の胸に刺されるような痛みが走った。比喩ではなく、一瞬、呼吸ができなくなるほど鋭い痛みだ。
 周囲にいたガラス細工がいっせいに神谷に襲いかかる。花が矢のように飛び、頭上からはビンが降ってくる。もちろん神谷は応戦する。
 空中で打ち砕かれたり、床に叩き落としされたり、よけられて壁に激突したり。無惨に砕け散ったガラスの残骸が、どんどん床に広がっていく。
 待って、ダメ。
 壊さないで。
 言おうとしても声が出なかった。ひとつ割れるたび、沙凪の胸を痛みが貫く。
 沙凪は耐えかねてひざをつく。すると、ガラス細工たちが沙凪を苦しめていると思ったのか、神谷はガラス細工を一掃しようとさらにペースを上げてしまう。
 違う。そうじゃないの。
 お願い、聞いて。
 思いが届かない苦しさと痛みで、涙がにじんでくる。
「僕は聞いてるよ」
 その声は救いのようにまっすぐ沙凪に届いた。
 信じられないような、すがるような気持ちで、後ろを振り返る。
「深水、君?」
 ガラスの床の上に、スーツ姿の深水が立っていた。すっかりネクタイもしめなれた年頃に成長している。
 急にガラスたちが大人しくなった。みんな深水の方を向いている。床にいた者たちは端に寄って、深水のために道を開けた。
「ちゃんと聞いてる。声にしなくたって分かるよ。ほら、一緒に行こう」
 そう言って深水は、手を差しだした。手の平の真ん中には、シルバーの指輪が載っていた。ガラスの輝きがあふれるこの部屋の中でも、ひときわ強くきらめいている。
 目が吸い寄せられる。
 呼吸も忘れて、指輪に見入ってしまう。
「そいつから離れろ!」
 神谷のはり詰めた声に、沙凪は顔を上げた。
 その時、何かが動いた。さっきは蹴られてもまったく動かなかった黒い人が、恐ろしい速さで巨体を回していた。大きな拳に、神谷が弾き飛ばされる。
「神谷さん!」
 飛ばされた神谷を目で追う。
 突如、目の前に闇が滑りこんだ。
 真っ黒な膜のようなものが、あっという間に沙凪を包みこんでしまう。自分の手さえ見えない、完全な暗闇だ。
 光も、音も遮断された。ふっと地面が消え、体が前に傾いていく。急なことに動揺した沙凪は、バランスをとろうと手足をばたつかせる。
 ふいに、背後から温かいものが絡みついた。背中から首、胸にかけてを抱きしめられる。その途端に体から力が抜けて、水の中を浮いているような心地いい脱力感に満たされる。
「あいつには一生、沙凪の気持ちは分からないよ」
 深水の優しい声と吐息が、耳に直接注ぎこまれる。
「僕と一緒にいれば幸せだ。そうだろう?」
 脳がとろけるほどの多幸感が、体中を満たす。
 不安や恐怖といった感情は、すべて消え去った。
 ただ、背中に感じるぬくもりが心地いい。
 沙凪は静かに目を閉じ、深水の腕に身を委ねた。
 

「沙凪は何も心配しなくていいよ」
 沙凪が疑問や不安を口にすれば、深水は必ずと言ってもいいほど、そう言った。言葉で拭いきれない時は、力強く腕の中に抱きこんでくれる。そうされると不思議と、沙凪の中にあった不安定な感情はさらりととけて消えてしまう。
 何があっても、私はここに帰ってこられれば大丈夫。
 深い安堵に包まれ、沙凪は深水に身を任せる。
「沙凪」
 耳元でささやかれると、めまいがするほど恍惚としてしまう。とろりと耳に入ってくる深水の声は、ローストしたキャラメルのように甘く鼓膜に絡みついた。
 小さい頃からずっと、一方的に焦がれているだけだった。そんな相手が、自分の目を見つめてくれる。名前を呼んでくれる。肌に触れてくれる。沙凪が望めばいつでもその腕に迎え入れてくれる。重ねた手にはおそろいの指輪が輝いている。
 ベッドの上で、深水の長い腕に包まれてまどろんでいると、幸せはここにあると実感できた。
 だが、ふとした瞬間、不安になることがある。この優しさが永遠には続かないのではないかと。
 例えば、沙凪に触れる深水の指や唇から、タバコのにおいがした時。元々苦手な上に、彼の吸う銘柄のにおいは特にダメだった。ヨーグルトに似た、頭が痛くなるほど甘ったるいにおい。沙凪が苦手と知っているはずなのに、吸ってすぐの口でキスができる深水の無神経さに気づいてしまった夜は、不安で眠れなかった。
 沙凪を向けられているはずの深水の目が、沙凪を通り越して別の何かを見ているような気がする。沙凪を抱きしめている間、その視線はどこに向けられているのかと考えてしまう。
 知りたいけど、怖い。疑っていることが深水にバレたら、この幸せがとり上げられてしまうのではないか。こんな幸せを与えてもらっている自分が、それを疑うなんてあっていいはずがないのに。
 最後はいつも、そうやって疑問を意識の外に押しやった。目の前にある幸せを胸いっぱいに吸いこめば、細かいことはすぐにどうでもよくなってしまう。
「そうやって、いつも自分に言い聞かせてる」
 突然聞こえた声に、沙凪は目を開ける。
 あたりは真っ暗だった。沙凪を包むまぶしいほど白いベッド以外、何もない。眠っているのか、沙凪が体を起こしても気づかない。
 そんな真っ暗闇の中に、ぽつんと女の子が浮いていた。もうすっかり大人の女性の姿になっている。
「思いだして。あなたはだれ?」
 こんなに簡単な質問なのに、答えるのが怖かった。薬指の指輪をなでて、不安を紛らわせる。
「私は、新島沙凪」
 彼女は無表情で首を振る。
「違う。新島沙凪は私」
 確かに彼女も沙凪かもしれないが、自分こそが本物の沙凪だ。そう思うのに、沙凪は言い返せなかった。
 沙凪はベッドから出る。何も身に着けていなかったが、彼女になら見られても恥ずかしさは感じなかった。
 足を下ろした先に、地面の感触はなかった。ベッドから離れると体がゆっくりと沈んでいく。試しに何もないところを蹴ってみると、体はふわりとその方向へ進んだ。水中の感覚に近い。
 近づいてみると、彼女の背後には姿見があった。彼女が一歩脇にずれ、鏡に映った自分の全身が見える。
 鏡に映る自分の姿と、横に立つ彼女の姿は、似ても似つかなかった。
 彼女は沙凪そのものだ。
 鏡に映った沙凪の姿が、沙凪ではないのだ。
 すらりとしているが、くびれなどのめりはりがしっかりついた体。絹のようにさらさらと揺れる髪はそのまま背中に流している。こんなに動揺しているのに、顔は自信に満ちた笑みが浮かんでいる。
 違う。こんなの、私じゃない。
「私は、だれ?」
 声が震えた。
 彼女は無表情のまま答える。
「もうちゃんと思いだせるはずだよ」
 まるで沙凪が沙凪でないような言い草に、沙凪はますます混乱する。
 だって、自分はこれまでずっと新島沙凪として生きてきたのだ。実際それが、夢としてこの世界に投影されていた。曖昧あいまいだったり、意味が分からない部分も確かにあったけど、沙凪がそこにいたことは間違いない。
 沙凪は、順番にそれらを思いだしていく。

つづく

Photo by Victor あず吉 あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ

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