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【長編小説】清掃員の獏(10)

前回

*   *   *

 沙凪は小学校一年生で、初めての恋をした。
 その日の授業は、みんなで植えたアサガオの観察をしに行くことになっていた。
 校舎を出て、校庭をはさんだ向こう側にある庭まで歩く。少し前から小雨が降り始めていたけど、ここ数日、ずっと降ったりやんだりを繰り返していたので、みんな傘を持ってきていた。
 ――彼女・・を除いて。
 彼女は傘がわりに、頭に水色のハンカチを載せていた。顔の上に手をかざしながら、足早に庭を目指して歩く。
 沙凪は悩んだ。傘に入れてあげるべきだと思う。でも彼女とはまだ一度もしゃべったことがなかった。嫌がられたらどうしよう。それに彼女は背が高い。沙凪が持った傘では、彼女が体を屈めさせることになる。だったら別のだれかの傘に入れてもらった方がいいのかも。
 そんなことを考えているうちに、深水が彼女に歩み寄っていた。歩く速度を合わせて横につき、無言で彼女を傘に入れる。彼女は少し驚いた顔になる。沙凪も驚いた。彼女と深水が話すところを見たのは初めてだったから。
「父ちゃんが言ってたんだ。男は女に優しくしなきゃダメだって」
 深水がそう胸をはると、彼女は照れたみたいにちょっと笑った。
 それを見た時、沙凪は胸がきゅっと苦しくなった。彼女がうらやましくて、たまらなかった。どうしてその傘の下にいるのが自分ではないのかと、寂しくなった。ちゃんと傘を持ってきたことを恨みさえした。
 入学してからずっと、沙凪はなんとなく深水のことが気になっていた。教室にいる時も、気づけば視線はいつも深水を探していた。それが何を意味するのか、その日、ようやく理解した。
 よほどじっと見つめていたのだろう。沙凪の視線に気づいた他のクラスメイトが、ふたりを指さしてクスクスと笑い始めた。ついには深水と仲のいい、やんちゃな男子たちにも気づかれてしまった。
「あいあい傘じゃん!」
「お前らつき合ってんのー?」
 男子たちはふたりの周りに群がって、深水をさんざんからかった。
 深水はみるみるうちに、顔から耳まで真っ赤になってしまう。やがて耐えかねたように、さっと彼女から離れた。男子たちはまだからかい足りないらしく、深水を追いかけて走る。そのうちひとりが彼女にぶつかり、彼女の頭からハンカチが落ちた。
 彼女は慌てて手を伸ばすが、ふわりと広がったハンカチは、そのまま校庭の水たまりの上に落ちてしまう。
 彼女は手を伸ばしかけたまま、しばらくその場で凍りついた。
 ようやく拾い上げたハンカチは、汚れた水を吸って、すっかり色が変わっていた。それを見つめる彼女の顔に、雨が降り注ぐ。
 沙凪の足は自然に動いていた。
 水たまりをぐるりと迂回うかいして、彼女のもとへ向かう。水たまりがやたら大きく感じられて、気づかないうちに小走りになっていた。早くしないと、彼女が泣きだしてしまう気がした。
 彼女は無表情でハンカチをしぼっていた。滴り落ちる茶色い水が跳ねて、彼女の靴を汚す。
 やっとたどり着いた沙凪は、腕をいっぱいに伸ばして、彼女の頭の上に傘を差しだした。
 彼女がまたびっくりした顔になる。
「一緒に行こう」
 沙凪がそう言うと、彼女は嬉しそうに顔をほころばせた。
 

 それからずっと、沙凪と彼女は一緒だった。何度かクラスが離れてしまったけど、それでも、放課後はいつも一緒に遊んでいた。
 深水は学年が上がるにつれ、その存在感を増していった。行事を引っぱるのも、授業中に笑いをとるのも彼。ちょっと偉そうだけど、それすらも頼りがいがあるように見えた。
 一方、休み時間に自分の席でひっそりと本を読む沙凪の姿は、クラスではただの風景と化していた。用事がない限りはだれも話しかけてこないし、沙凪も自分から彼女以外に話しかけることもない。それでよかった。授業中に消しゴムかすを集めて練り消しを作る深水の一生懸命な横顔を見ているだけで、沙凪は十分幸せだった。
 六年生でまた同じクラスになった沙凪と彼女は、一緒に生き物係をやろうと約束した。教室には大きな水槽があった。担任の先生が趣味で飼っているベタを、教室に持ってきたのだ。柔らかいクシの歯みたいな黒くて長いヒレが背中からお尻、お腹まで生えていて、泳ぐたびにそれがひらひらと揺れてきれいだった。他にも、学校の池から連れてきたメダカや金魚も一緒に飼っていた。その水槽の管理が、生き物係の仕事だ。
 だが生き物係を希望する人は他にもいた。深水もそのひとりだ。深水はその魚たちをいたく気に入っていて、勝手にエサをやろうとして先生に止められる姿を何度も見ていた。最終的にはジャンケンで決めることになり、沙凪と深水は早々に負けてしまい、最後まで残った彼女と別の男子が生き物係になった。深水はよっぽど悔しかったらしく、その男子に何度も係の交換を持ちかけたが、あえなく断られた。
 朝と夕方にエサをやり、たまに水槽の水をとり替える。それを、彼女ともうひとりの係が一日交替で担当していた。
 ある朝、沙凪が学校に行くと教室は騒然としていた。みんな水槽の周りに集まり、何か騒いでいる。沙凪が横から覗きこむと、いつもは水槽の中でゆったりと泳いでいるはずのベタが、腹を横倒しにして水面に浮いていた。黒に白い模様が入ったきれいなヒレが、水面に広がってゆらゆら揺れている。目玉は白く濁っていて、命が完全に抜け出てしまったのだとひと目で分かった。他の魚も、全滅だった。
 深水は少しだけ口を開けた状態で固まっていた。目はじっと、水に浮かぶベタを見続けている。
 そこへ、彼女がやってきた。事情を知らない彼女が水槽に近づいた途端、深水が叫んだ。
「お前のせいだ!」
 教室が水を打ったように静まり返った。深水は目と耳を真っ赤にして彼女を罵倒した。
 彼女は状況がうまく飲みこめず、ただ深水の言葉を受け続けていた。
 コンセントを調べてみると、ポンプのプラグが抜けて、かわりにヒーターのプラグが入っていた。いくら熱帯魚とはいえ、冬に使うはずのヒーターを晩春に使われては、耐えきれなかったのだろう。
 昨日の当番は彼女だった。
 彼女はコンセントにはさわっていないと主張し続けた。担任の先生も彼女を擁護した。最後に世話したのが彼女だからといって、必ずしも彼女の責任だとは限らない。もしかしたらだれかが気づかずに挿しかえてしまっただけかもしれない。やったのがだれであろうと、悪意はなかったはずだ。先生はそうみんなをなだめた。
 でも、深水が許さなかった。深水の意見はクラスの意見だった。みんな口には出さなかったけど、心のどこかでは彼女が犯人だと思っていた。
 沙凪を除いては。
 だけどそれは友達だからとか、そんなきれいな理由ではなく、心当たりがあったからだ。
 沙凪は、昨日の清掃の時間に黒板の掃除をした。黒板消しをきれいにするため、水槽につながっているプラグを抜いて、クリーナーのプラグに挿しかえた。しばらくポンプが止まるだけで、すぐに元に戻せば大丈夫だろうと、それくらいにしか思っていなかった。
 もしかして、と浮かんだ途端、全身の血がすうっと足元へ下がっていった。
 そのまま消えてしまいたかった。
 その場では確かめる勇気がなくて、沙凪はじっと汗ばむ手をにぎりしめていることしかできなかった。
 自分がどうしようもないちっぽけな存在に思えた。
 沙凪は未だに、そのことを彼女に言いだせずにいる。
 

 彼女はどんどんクラスの中から浮いた存在になっていった。初めは深水の怒りに触れないように、少し距離を置いているだけだった。それがだんだん当たり前になり、半年もするとだれも彼女に話しかけなくなっていた。
 それでも沙凪は、彼女と一緒にいた。休み時間には彼女と話をし、放課後も一緒に遊んだ。初めは、もしかしたら自分も標的になってしまうのではないかと心配していた沙凪だったが、そうはならなかった。どうやらクラスメイトたちの目には、友達がいない寂しい者同士が一緒にいる、程度にしか見えていなかったらしい。ようするに、みんな沙凪には興味がなかったのだ。
「ふたりは親友なんだから」
 彼女は口ぐせのようにそう言った。沙凪にだけはどんなことも話してくれた。
 今日こそは本当のことを言おう、と毎日思っていた。だけど結局、言えないまま別れてしまう。時間が経つほど、ますます言いだしにくくなっていった。今まで黙っていたと知れば、彼女はきっと傷つくし、怒る。唯一の友達を失ってしまうのが怖かった。
 そんなことをしているうちに時間がすぎ、いつしか沙凪自身もそのことを思いだすことはなくなっていった。
 けれど彼女の総スカンは、中学校に上がっても続いた。
 他の小学校から来た子たちは、初めは彼女と普通に接した。だが事情を知る生徒から話を聞くなり、彼女と距離を置いた。中には面白がって賛同する者もいて、事態はさらに悪化していった。
 それは三年生になっても休むことなく続いた。
 修学旅行の二日目は班ごとに京都巡りをするはずだったが、大雨で中止となり、かわりに博物館へ行くことになった。ショーケースに並んだ文化財をひとつひとつ熱心に眺める彼女につき合って歩くのは、沙凪にはどうしようもなく退屈だった。どれを見ても同じに見えたし、古いだけでちっとも価値のあるものには見えない。
 ただひとつ、人魚が描かれた日本画だけは妙に記憶に残った。妖怪か何かのように不気味に描かれており、筆先でなでただけのひょろひょろとした線と、紙のシワがあいまって、おどろおどろしかった。
 博物館見学が終わると、隣の食堂で昼食をとる。時間が余れば下の階にある売店を見にいってもいいことになっていた。
 買い物をしている時、沙凪は何人かの女子生徒たちが外へ出ていくのを見かけた。なぜそんなことを覚えているのかというと、その子たちが彼女の無視を扇動していたグループだったからだ。
 沙凪と彼女がおみやげを買って食堂に戻ってくると、イスの上に置いてあったはずの彼女のカバンがなくなっていた。母から譲り受けた革の学生カバンで、普段もサブバッグとして学校に持ってきているほど気に入っていたものだ。ふたりであちこち捜し回ったが見つからず、担任の教師が博物館の職員に、盗難かもしれないと報告した頃、他の見物客によってようやく発見された。
 カバンは博物館正面の道路に打ち捨てられていた。雨にぬれていて、おまけに車に踏まれたらしく、ひどく形が崩れ、持ち手の金具が壊れていた。
 あの子たちだ。
 沙凪はさっき見たものを彼女に伝えた。彼女は、やっぱり、という顔になって、その女子グループのもとへ向かった。
「私らがやったって証拠、あんの?」
 リーダー格の女子生徒は待ってましたとばかりにそう言った。後ろにいた取り巻きたちがこらえきれずに笑いだす。
 彼女は辛抱強く問い詰め続けるも、リーダーは長くて黒い髪の毛をいじりながら「だから、証拠は?」と繰り返すだけだった。絵の具のチューブからだしたそのままの黒みたいな色の髪で、蛍光灯の下でもほとんど光らず、その根性の悪い笑みと相まって気味が悪かった。
 担任教師が来ても、状況はよくならなかった。取り巻きたちが口をそろえて「みんなでずっと一緒にいた」と証言したのだ。証人があっちは複数人、こっちはひとり。教師の頭の中の天秤が傾いていくのが目に見えるようだった。
 結局、担任教師は女子グループを解放した。
 正直、予想通りの展開だった。この手の問題は、確固たる証拠がなければ教師の介入は期待できない。彼女もこういう経験は初めてではなかったし、ダメ元で言ってみただけのところがあった。
 だけど、そのあとに続いた言葉には、耳を疑った。
「そもそも、なぜカバンから目を離したりしたんだ」
 彼女も私も、驚きで何も言えなかった。
 犯人を特定することができず、すっきりしないのはわかるが、そこで原因を被害者に求めるのは違う。なぜ今、そんな言葉が出てくるのか、理解に苦しむ。
 けれど、担任教師は「貴重品からは目を離すな」ということを、言葉を変えながら何度も繰り返した。めんどうになった彼女が「わかりました。気をつけます」と言うと、満足したように去っていった。
 遠くの席から、クスクスと笑う声が聞こえた。

つづく

Photo by Victorあず吉あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ


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