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【長編小説】清掃員の獏(11)

前回

 それ以来、彼女は抗議をやめた。けれど決して屈しなかった。壊れた持ち手を修理して、少しふやけた革のカバンで登校し続けた。それからは、どんなことをされても決して教師に相談しなかった。
 彼女は、嫌がらせのすべてを「仕方ないな」のひと言で片づけるようになった。真っ向から戦いを挑んでも、こちらの手札は限られているし、手札を切ることはかなりの体力を必要とする。だから彼女は長期戦を覚悟した。相手が飽きるのを待ったのだ。
 自らがつらい状況であっても、彼女は沙凪が困っている時は必ず力を貸してくれた。もしかしたら、沙凪を助けることで自分の自信を保っていたのかもしれない。
 実際、彼女はとても頭がよかったし、大抵の運動は軽くこなせた。小さい頃からクラシックバレエを習っていて、その美しい姿勢から、気品や育ちのよさがにじみ出ていた。どんな目にあっても常に背筋をぴんと伸ばして歩いていた。
 その自信にあふれた姿が余計に同級生たちの反感を買っていることに、彼女は気づいていたのだろうか。
 

 その年の夏、受験勉強の息抜きにと、沙凪は彼女に誘われて海水浴に行った。海岸もホテルの私有地なので、真夏なのに人が少なかった。なぜ彼女がここに出入りできたのかは、なんとなく聞かなかった。
 気にするものがないせいか、彼女はいつもよりもはしゃいで見えた。
 夜、ふたりは浜で花火をした。花火が尽きると足だけ水に入れて遊び、飽きたらレジャーシートを敷いて寝転び、星を眺めた。
「なんで、私なんだろうね」
 唐突とうとつに彼女が言った。
 なんの話か、沙凪はそれだけで分かってしまった。横にいる彼女の顔が見られない。見てはいけない気がした。
「単に仲間はずれにされるだけだったら、なんとも感じないよ。でも、私をはぶくことで他の子同士が仲よくなるのって、おかしいよ」
 もはや、きっかけが何だったのかは完全に忘れ去られていた。ただ彼女になら何をしてもいい、というおかしな空気になっている。彼女を無視するのが一種の踏み絵のようになっている。その理不尽な状況に彼女は怒っていた。
「ねえ、沙凪。私、どうしたらいい?」
 波の音に消えてしまいそうな弱々しい声が、沙凪の胸をゆっくり、深く貫いていく。彼女のこんな声を聞いたのは初めてだった。
 彼女は強いから、ちょっとやそっとのことでは傷ついたりしない。そう思っていた。
 勝ち目のない戦いを何年も続けてきた彼女は、もう耐えることに疲れ果てていた。知的で、強くて、大人びていて、とても優しい彼女だけど、それでもやはり十五歳の子どもだった。苦しい思いをすれば傷つくし、ようやく乾いてきた傷口の上からをさらに新しい傷をつけられ続ければ、傷はいっそう深く、治りにくくなる。彼女はもうぼろぼろだった。
 一番近くにいて、支えているつもりでいたのに、彼女がここまで疲弊ひへいしていることに気づかなかった。
 かすかな空気の震えから、彼女が泣いているのが分かる。
 それでも、沙凪は気の利いた言葉ひとつかけてあげることができなかった。どうすればいい、何を言ってあげればいい、と星空に向かって助けを求めるばかりだった。
 言葉がダメでも、目を見て微笑んだり、手を握ったり、他にいくらでも伝えようがあったはずだ。でもその時の沙凪には、その選択肢すら浮かばなかった。挙句の果てには、自分の不甲斐なさに沙凪まで泣きだしてしまったのだった。
 人気のないビーチで、しばらくふたりはそうやって空を見て泣いた。
 彼女が沙凪に対して助けを求めたのは、あとにも先にも、この時だけだった。
 

 沙凪は中堅の公立高校へ通うことになった。もう少し上を目指すこともできたけど、その高校は深水が受験する学校だった。不純だが、特にやりたいことがあったわけでもない沙凪にとって、十分な動機に思えた。彼のそばにいられると考えただけで、学校に行くのが楽しくなる。美術の時間には近くの席に座れる。相変わらず声をかけることはできなかったけど、それだけで沙凪は幸せだった。
 二年生になった頃、深水が女の子とつき合っているとクラスで話題になった。それまでも何人かとつき合っていたらしいが、今回は相手の通う学校が注目を呼んだ。地元では進学校として有名な、彼女が通っている高校だった。同学年で背が高くてかわいい子、というのがもっぱらの評判で、沙凪にはどうしても、それが彼女に思えてならなかった。
 高校が別になっても、少なくとも月に一回は彼女と会っていた。彼女はずいぶん高校生活を楽しんでいるようだった。同じ中学校出身の生徒がだれもいないため、彼女は本来の素質を存分に発揮し、人気者になっているらしい。
 沙凪は一度、思いきって深水の話をしてみたことがある。
「深水君が今、そっちの学校の女の子とつき合ってるんだって。知ってる?」
 彼女にとって深水という存在は、あらゆる意味で爆弾だった。水槽の件で深水のことを今でも悪く思っているかもしれない。あるいはまったく逆かも。そんな不安から、沙凪は彼女の前では極力、深水の話をしないようにしていた。彼女が深水のことをどう思っていたとしても、答えを聞きたくなかった。それでも、この時ばかりは聞かずにいられなかったのだ。
 だけど、返ってきた彼女の言葉はあまりにあっさりしていた。
「ああ、その子なら、私のクラスメイトだよ」
 その女の子とはとても仲がいいらしい。穏やかな子で歌と料理がうまいのだと、彼女は語った。
 沙凪は心底ホッとした。もちろん、深水が他の女の子とつき合っているのは、あまりいい気分ではない。でも、どうせ高校生の恋愛など長続きはしない。彼の心を本気でつかめる女性などそうそう簡単には見つからない。そうたかをくくっていた。
 だけど彼女なら、もしかしたら。
 どうしてもその思いが拭い去れなかった。
 水槽の一件が起きなければ、深水も彼女に恋をしていたかもしれない。だから、深水が彼女の魅力に気づかないままでいてくれることを祈っていた。
 

 ある時、沙凪は彼女と買い物に出かけた。沙凪に合った化粧品を彼女に見立ててもらうためだ。彼女が化粧品を選んでいくのを、沙凪はぼんやりと聞いていた。アルバイト先に「仕事中は化粧をしろ」と言われてしまったからこうしているけど、本当は気が進まなかった。
 後ろ向きな気持ちを引きずりながら歩いていたら、棚にあった香水のビンをバッグで引っかけて落としてしまった。店の中央のテーブルに飾られていた金魚のガラス細工と目が合い、どきりとする。全部見ていたぞ。ガラスの目がそう言ったような気がした。
 ビンは割れてしまい、弁償するよう求められたが、到底、沙凪に買えるような金額ではなかった。謝罪してそれを伝えると、太った女性店主は激昂して沙凪を罵った。沙凪がまるで言い逃れをしているかのように責め立てる。店主が手を大げさに振ったり、こちらを指さしたりするたび、指にいくつもはめられた大きな石つきの指輪が、ぎらぎらと照明に反射した。
 そこに彼女が割りこんできた。事情を説明すると、彼女は他の客の目もはばからず、店主に食ってかかった。
「この子は逃げずに、素直に謝ってるじゃない。なのに、いい大人が話も聞かずになに? あんたがどれだけ偉いか知らないけど、他人の人間性を否定する権利なんかどこにもないんだからね」
 大きな声で反論する彼女を頼もしく、また恐ろしくもあった。他の客たちの注目を集めてしまっているのがいたたまれず、沙凪は状況を黙って見ていることしかできなかった。
 最終的には、根負けした店主に沙凪への中傷を謝罪させると気が済んだらしく、彼女は割れた香水の代金を財布からぽんとだして、店をあとにした。
 彼女は今しがたまでの大騒ぎなどけろっと忘れて、次はどんな店に行こうか、ということを言いながら街を歩いていく。本当なら沙凪ひとりの問題なのに、気づけば彼女の独壇場どくだんじょうになり、今ではこんなに清々しい顔をしている。
 沙凪はそうした彼女の強さや奔放ほんぽうさに憧れるのと同時に、少しうとましさを感じるようになっていた。

つづく

Photo by Victorあず吉あぼかどちゃん
Edited by 朝矢たかみ


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