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短編と長編の書き出し

 いらしてくださって、ありがとうございます。

 書くという行為は、己の裡にあるものを表に出すことで悩みを整理したり、悩んでいる原因そのものに気づいたり、外に出すことでスッキリして癒やされる、などの働きがあると申します。

 広告の裏紙に殴り書き、あるいは日記帳に綴ったり、エッセイや物語のような形にまとめていくのも、おなじ効果があるのだとか。

 ゆえに、小説を書くたびに同じような境遇の人物が登場したり、いつも同じような展開になってしまうときは、自身のなかに「昇華させるべき何か」が存在するのかも。と、ある作家さまは仰せでした。

 新しき年がはじまり、さまざまな思いを抱きつつも、今年の目標に「小説を書くこと」を挙げられた方もおいでかもしれません。

 私も今年は、複数の小説公募に取り組みつつ、こちらのnoteでは好きな古代史のこと、読書感想や日常で感じたあれこれとともに、これまで学んできた小説の書き方についてふり返る記事を書いていこうと思います。

 よろしければ本年も、ゆるりとおつきあいくださいますとうれしいです。

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 小説講座のお仲間に、「私には長編は書けない、無理よ」と仰る方がおいででした。地方の文学賞で大賞を受賞され、とても整った文章を書く方なので、謙遜でもあり、長編を書く体力が足りない、ということだったのかもしれません。

 私も講座に入るまでは小説なんて書けないと思っていましたし、書き始めてからは、15~30枚以上の物語は書けないと思い込んでいました。
 でも、短編には短編向きの、長編には長編向きの物語世界があるだけのことで、誰でもが長さに関係なく小説は書けることに今は気づいています。
 
 地方の公募に多い15~30枚くらいまでの短編の場合、登場人物は主人公のほかに数人まで、登場する場所も二か所くらいまで、時間軸も一日~数日(十年後などに飛ばしたとしても、飛ばした先での一日~数日)くらいまでしか「紙幅の都合上、書けない」もので。
 それより多くの人数が登場し、数年間にわたる出来事をつづりたいと思えば、自然と描く場面も増え、自動的に書く量が増えていき長編になる。それだけの違いであることを私自身、ある公募に挑戦して体感したのでした。

 ただ、短編と長編、どちらにもそれぞれの難しさがあり。
 たとえばショートショートといわれるような、原稿用紙5枚~10枚くらいの短編の場合、さらりと読み終えてしまう長さだけに、読者に物語を印象づけるためには、鮮やかなドンデン返しやオチが必要

 長編の場合は、300~400枚を飽きずに読み進めてもらうために、数枚ごとにヤマ場を作らねばならず、さらにそのヤマ場は、物語の進行につれ、どんどん大きくなっていかねばならず。
 また、主人公の変化という一本のストーリーラインだけではダレてしまうため、主軸となるストーリーに絡めて、もう一つか二つのストーリーも並行して描きつつ、クライマックスではそれら複数のストーリーを一つに収斂させるという大技も必要です。

 これから小説を書き始める方は、まずは「原稿用紙換算で何枚分の物語を書く」と決めて、「その範囲内で物語が展開し、収束する」ことを目標にしてみるとよいかもしれません。
 これは、私が小説講座に入ってすぐに「原稿用紙10枚の作品を提出」するよう指導され、何作か書いていくうちに、10枚4000字で何が書けるかを知り、10枚でおさめるためには物語のどの場面を描けばよいかを考えながら体得した、経験からのオススメです。

 書いてみて、物語が10枚でおさまりきれなかったときは、きっちり10枚になるまで「余計なところを削る」。どうしてもその一語・一行がなければ物語が成り立たないかどうかを、よく読み返しながら削っていく。
 どうやっても削りようがない、数十枚になってしまう場合は、その題材が10枚という長さではなく、30枚・50枚・80枚あるいは数百枚という長さがふさわしい物語かもしれません。そのときは、思い切って書き上がるまで書いてみるのもアリだと思います。結果、初挑戦した小説が長編となるかもしれません。

 では、いざ書き始めるとして、出だしをどうするかがまず最初の壁に。この冒頭部分は、プロ作家でも一番悩み、何度も何度も書き直す部分だと申します。
 ご参考までに(すこし長くなりますが)、プロ作家の書いた短編と長編の冒頭部分を以下でご紹介しますが、その前に、冒頭に書くべきことについてすこし触れておきます。

 
 過去記事でご紹介した『シナリオ・センター式 物語のつくり方』(新井一樹:日本実業出版社)では、物語の冒頭、起承転結でいえば「起」にあたる部分の機能として、以下の三点をあげておられました。

 ・天地人を紹介する
 ・物語のジャンル・テイストを伝える
 ・アンチテーゼから始める

 天地人の「天」は時代・情勢のこと。「地」は物語の舞台となる場所・土地のこと。「人」は登場人物のこと。
 読者に、この物語がどういう時代の、どこを舞台にした物語で、登場人物がどんなキャラクターなのかを冒頭で伝える。

 ジャンル・テイストを伝える意味は、冒頭でこの物語がシリアスものか、コメディタッチなのかなどというテイストを知らせることで、読み手に心の準備をしてもらうため。

 アンチテーゼとは「テーマの反対」という意味ですが、これは物語を面白くするための最重要ポイントでもあり、短くまとめられないことですので、詳細は『シナリオ・センター式 物語のつくり方』をお読みいただければと思います。

 では、「起」の三つの機能に着目しつつ、以下の二作品の冒頭部分をご確認ください。

 

 晴美が台所の床に散った油汚れに洗剤を吹きかけていると、和幸が冷蔵庫から缶ビールを取り出した。プルトップを引き上げてすぐ、雑巾のすぐ向こうに立ったまま飲み始める。洗剤の霧をわざとその足にかけた。飛び退いた和幸が「なにすんだよ」と台所を出て行く。リビングのソファーに音をたてて座ると、すぐにリモコンでテレビのチャンネルを変え始めた。晴美はひたすら台所の床を磨く。
 JR九州の豪華列車ななつ星の抽選に当たったことが嬉しくて仕方ない和幸は、二か月前から何を言っても何をしても、苛立ったり声を荒げたりすることはなくなった。暦の上ではもう夏が終わったが、札幌の夏はまだ終わる気がないのか、八月末になっても日中は暑さが続いている。日が暮れるとぐっと気温が下がるので、真夏ではないのだろうが、日中締めきった部屋が三十度になればやはり暑かった。夫が機嫌良く暮らしているのは、なんにせよありがたい。

桜木紫乃『ほら、みて』(『Seven Stories星が流れた夜の車窓から』:文春文庫)より引用

  
 この桜木紫乃さんの短編『ほら、みて』は、原稿用紙で34枚の短編です。 
 文庫版の冒頭10行ほどを引用していますが、このわずかな紙幅で、主人公が晴美という主婦で、夫は日ごろ声を荒げたりすることもある性格であること。夫の足にわざと洗剤を吹きかける行為からは、晴美の性格と夫への不満が表現され、季節は八月末、舞台は札幌の自宅と「ななつ星」になりそうなこと。物語のジャンルは「すれ違う夫婦の関係を描く人間ドラマ」であることが予想できます。

 冒頭のたった10行でこれだけの内容を提示できるのは、いかに無駄な一語・一行がないかという証左でもあり。
 読み終えて、この冒頭がアンチテーゼから始まっていることもわかり、読後感も素晴らしく、さすが桜木紫乃さんだと唸らせられた作品でもあります。

 つづいては、長編作品の冒頭部分の引用です。 

 バルサは、滝の上に立っていた。すぐ左脇に、洞窟が、ぽっかり口をあけている。その洞窟の中から水流が流れでて、バルサの立っている岩棚から滝になり、はるか下の滝壺まで、轟音をあげて流れ落ちているのだ。
 バルサは、山の精気がたっぷりとしみこんだ水の匂いにつつまれて、もうずいぶんと長いこと立ちつくしていた。この高みからは、大地のしわのように幾重にもかさなった青霧山脈が見おろせる。暑く、雨の少なかった夏が過ぎ、山の緑は、すこし色褪せはじめていた。もうあと一月もすれば燃えるような紅葉がこの山々をおおうだろう。
 今、夕日がバルサの全身を淡い金色に染めて、右手の山陰に沈みはじめていた。
 眼下にひろがる青霧山脈から南は、新ヨゴ皇国。バルサが、人生の大半を過ごし、心から大切に思う人びとが暮らす国がひろがっている。……そして、この岩山のむこうには、バルサの生まれ故郷──長いこと、思いだすことさえ苦痛だった、故郷のカンバル王国がある。
 旅人が行き来する正式の国境の門は、ずっと西にあったが、バルサは、この洞窟をぬけて、ひそかにカンバルへもどろうと考えていた。
 バルサは目をとじた。目の裏に夕日が赤く宿っている。
 むかし、手をひかれ、泣きじゃくりながら暗い洞窟の闇をぬけて、この岩棚にたどりついたのも、こんな夕暮れどきだった。──あれから二十五年。もう二十五年も経ってしまった。泣きながら、岩棚に立ちつくしていた六歳の少女には、はてしなくひろがる異国の景色が、ひたすら恐ろしく見えたものだ。その異国で、どんな歳月が自分を待っているのか、思いえがくことさえできなかった。
 二十五年の歳月を経て、いま岩棚に立っているバルサは、すりきれた旅衣を身にまとい、脂っけのない黒髪を無造作にたばね、使いなれた短槍に荷をひっかけてかついでいる、女用心棒だった。
 バルサは目を閉じたまま、短槍の柄に刻みつけてある模様を、指でそっとなでた。
(ひとつめの枝道を右。ふたつめの枝道も右。みっつめの枝道は左……)
 その模様が示す洞窟の道筋を、たしかめるように読みあげていた、養父のジグロの太い声が、耳の底によみがえってくる。
 カンバル王国は山国で、国土の大半が、母なる山脈と呼ばれているユサ山脈にそってひろがっている。そして、そのユサ山脈の地下には、幾筋もの洞窟が、まるでクモの巣のようにのびているのだった。カンバルの子どもたちは、物心つくと、洞窟には決して入らぬようにと、親たちから、きつくいいきかされる。太陽の下はカンバル王の国。けれど、山の下は、<山の王>が支配する闇の王国なのだから、と。洞窟は、<山の王>の家来、恐ろしいヒョウル<闇の守り人>たちが行き来する<闇の道>。もし、子どもが迷いこみでもすれば、かならず食い殺されるのだよ、と。 

上橋菜穂子『闇の守り人』新潮文庫より引用

 
 さきにご紹介した短編にくらべると、「起」の要素がかなりの字数を使って説明されていますが、それはこの物語が500枚超の長編であるがゆえ。

 それでもこの冒頭部分で、主人公の女用心棒という職業、幼いころに何があったのか、どうして正規のルートでなく洞窟から隣国へ忍ぼうとしているのかという、いくつもの謎が提示され、さらには洞窟のなかの道筋が「槍の柄に模様として刻まれている」こと、山の王、闇の守り人、といった言葉や国名などから、本作がファンタジーであることも感じとれます。

 『闇の守り人』はこの冒頭のシーンの直後、洞窟での「闇の守り人」とのすさまじいアクションシーンに突入し、洞窟で助けた幼い兄妹との出逢いがさらなる事件を次々と引き起こしていきます。

 主人公バルサの「過去の清算」の物語を主軸に、洞窟で出逢った少年の成長物語、王国の権力をめぐる暗闘の物語とが、山の王の謎が明かされるクライマックスで見事に一つに収斂されるという大技が見事で、500枚を超える長さを感じさせない、一度もダレる場面のない素晴らしい長編ファンタジー作品です。

 ちなみに、桜木紫乃さんの短編の登場人物は主人公と夫の2人、場所は回想を除けば自宅とななつ星車中の2ヶ所のみ。物語の経過時間は実質、ななつ星での一日だけ。
 一方、上橋菜穂子さんの長編の登場人物は24人、場面は17個以上、場所でいうと洞窟のほかに10ヶ所ほど、時間経過は数十日間。

 もちろん、長編でもたった一日の出来事で引っ張る作品はありますし、短編でも長い時の経過や大人数をさばく作品もあります。
 ただ、自分が書こうとする物語の大きさ、場の広さ、時の長さを考えると、それが短編にふさわしいか、長編で描くべきかの参考にはなるかと思います。

 長編は準備するものが膨大で、たしかに小説講座のお仲間のように「私には長編は書けそうもない」と日和ってしまいそうですけれど。では短編の鮮やかなドンデン返しや秀逸なオチが思いつけるかと言えば、それも厳しく。であるならば、自分が書きたいものを書くとして、それが古代の、場も時間も人数も大きな物語である以上、ひるまずに長編に挑戦するしかないのだな、と。……がんばるぞ。

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 最後までお読みくださり、ありがとうございます。

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 こちらは紙の雑誌のほかにオンライン版もございますので、ご興味を持たれた方はよろしければご覧になってみてくださいませ。
 

 今日もみなさまに佳き日となりますように(´ー`)ノ

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