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Rambling Noise Vol.59 「メルマガナイトへGo ahead! その45」

とおおおおおおおころで! 『宇宙戦艦ヤマト』と言えばだ。

その大ヒットで脱税するほど儲かった、伝説的に悪名高いプロデューサーの西崎義展を捨て置くことは出来ない。

例の『火の鳥 サプリメント in ウォーター編』で手塚プロダクションとコラボしているアサノさんとしては、そう、然るべく。
何故ならば、なんといっても西崎氏はかつて手塚治虫のマネージャーであったのだった。

その西崎氏が版権を委ねられ、テレビ局に売り込みに奔走し、その甲斐あって放送が決まり、初のプロデューサーに就任、制作されたのが1972年に放送された『海のトリトン』だった。

その当時、虫プロは経営難で混乱していた時期だった為、制作は東映動画の下請けスタジオが担当、フリーのコンテマンとして虫プロ作品に関わっていた富野由悠季(当時は富野喜幸。後に『機動戦士ガンダム』で、その名を世間に知らしめる)が初監督した。

富野監督以外は、殆どが虫プロスタッフではなく、”異常”に稀なことだが手塚治虫も一切制作に関与しなかった。
ストーリーも、キャラクターの設定だけを生かして、富野監督が一から練り直したという、手塚アニメとしては極めて異例な作品だ。

結果、「テレビまんがのトリトンは自分の作ったものではない」、「自分は原作者の立場でしかない」と、しばしば手塚治虫は読者に断りを入れることとなった。
また、後に富野監督は、ストーリーの改変については、かなり自由に任せてくれたことを回想し、これを、「手塚治虫自身が原作を失敗作だと考えていたのではないか」と

相変わらずの余計な一言を口にしている。


どうも富野由悠季という人は、しばしば自虐的な物言いをする辺りからも推察されるが、ひね者的な発言をすることが作家性を表す手段であると同時に、自分というキャラクターを発現するものであり、且つ、ファンサービスでもあると捉まえている様だ。

しかして、この『海のトリトン』制作時に於いて、どうもはっきりとはしていないが、手塚プロダクションに対してなんらかの不義理を働いた西崎義展は、手塚治虫及び、経営層と決裂。手塚治虫は、名前を聞くだけで激怒するほど彼を嫌い、生涯許すことはなかったと言う。

そして、とばっちりを喰らい、富野由悠季も以後虫プロを出入り禁止となった。
原作を捻じ曲げたことから手塚治虫の不興を買ったという一説もあるが、どうやらそれは違うらしい。
先に述べた、「日本のマンガを未来に」手塚治虫生誕90周年記念会に堂々と参加していたのが、まさにその証左ではないか。

因みに、『宇宙戦艦ヤマト』の制作時、西崎義展は一度、富野由悠季にコンテを発注したことがあるが、シナリオを無視して大いに書き換えてしまったことに激怒し、それ以来、この二人も交渉が途絶えたと言う。

いやはや、あまりにも、あまりにもpretty goodでso interesting。
面白過ぎですね。

(続く)

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