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同じフォントからすれば、感情のありかは。

私は本をあまり読みません。いや、全く読んだことがないのかもしれません。(あ、この言い回し・・)特に小説類は皆無です。文章書くと知識のなさがばれ、こんな風に発信すればどこかの誰かをもやもやさせるに違いない。しかしながら読む人を考えて文章を書くことは作品と同じくらい別格で、それがどういうフォームであれ、もう自分の表現の一つという感覚でいます。

本読まないくせに日本にいる時は本屋には一日中いる事もしばしばでした。何を楽しむかというと、興味のある記事やあらすじだけを見て回り、その断片、断片をつなぎ合わせて今がどのような現代なのかを考えたり、本屋店長とバイトのやりとりとか、本の装丁と中身の関係だったり、本楽しめてないというか、主旨外れた本屋ライフを過ごしていました。

小説や物語、詩や自伝、エッセイといった、文章のカテゴリーに対して興味がなく、個々のカテゴリーを観察して、新たなカテゴリーとしての言葉や文章、文字というモノに惹かれていました。

また、例えば長編の小説や物語、解説書などは数行読んだあたりでこの訳し方は・・・とか、この言葉って・・・とか、いちいち文節ごとに気になり始め、もう一ページぐらいで集中力が途絶えてしまいます。何度読み返して集中しようとしても意識はどんどん離れて行き、最終的に”本なんて読んでいる自分の姿”なんてのを、第三者が眺めているかのように自分を備えてしまうのです。そうしたものだから自分自身が読んでいる感覚には到底追いつかず、でも読んでいる人・本好きな人かっこいいと思っているので、あたかも読んでいるかのような振りをしながら”文字を追う”という作業に入っていきます。・・・もう、中身なんて入ってこないのでここ数年は諦めています・・。漫画だけが別格であり、漫画喫茶・ネットカフェオール(まだこの言い方なのか??)は若いうちから結構な頻度だったのですが。

ネットで文章を読んでいると、例えば自分にとってがっつりわかりやすい表現の仕方や、全く意味不明なもの、すんなり心に届くもの、書き手のきゃらくたーがイメージしやすいモノや、それを逆手にとって(演じて)書いた文章など、書き手が見えないのに文字を通して千も満もある表現を比べるのが好きです。渋谷交差点状態に文章があり、それを勝手に選び勝手に感じている感覚というか。

誰もが簡単に表現できて簡単に目にできる時代でそこに決まりはなく、問題視されている一方、受け皿は世界サイズになったはずです。その情報量とスピードには見極めが必要だし、リアルの世界に自我を保たなければ飲み込まれる恐ろしさがあります。だからなんというか、人間千差万別、十人十色なんて牧歌的な言葉で片付けながら、一方でその違いを見極めるまなざし(第三者として)が重要になるんだなあと思うのです。その距離感というのはナチュラルに素直に生きているだけではわかりずらく、本ではなくネットで文章らしきモノを”読んでいる”本を読まない私や、沢山のネットユーザーは危険だが、そのスピードこそが心地よかったりするのかもしれません。

漫画なんかは”びゅーん”とか、”みょーん”とか、”すたっ”とか、文章に起こすことなく擬音語によって様子や状態、キャラクターまでもイメージをする事が許されていて面白いと感じる表現の一つです。その、説明や文章を介さなくても浮かび上がる人間の想像力みたいな所にものすごく可能性を感じてしまいます。

パソコンで制作した文章のフォントを変えれば、文章にも表情やキャラクターが表れたようなイメージができる時があります。noteやブログなんか使いこなしている人はフォント変換や文字サイズを駆使して、臨場感のある話や感情表現が豊かな場面が浮かぶ表現をしています。その感情を表に出すことを惜しみなく、受け取り側のスピードも漫画のように軽く速いので、読み手寄りの文章といえるけど素直に読みやすい。けれどもそうすると、厄介なのはカテゴリー化することで、もしも全部がそういうHow toであれば表現がしょうもなさすぎるし、感情すら疑わしい。

逆にフォントが全て同じの文章であれば、その感情表現が視覚を通さなくなってもっと純粋に、文章のみでも”体験となる文章” に出会えるのかもしれないなあと、ふと思いました。


あそっか、・・・・・・本 読もう。




























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