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短編小説「代々木恋愛ゼミナール」


1   

少女A、或いはB。少年A、或いはB。或いは。   

僕は、最後まで少女Bの定期券区間を知ることは無かった。 ただし、JR線代々木駅の東口に用があっても、そのまま東口を使わないあたり、代々木は彼女のなにか最寄駅なのだろうとは思っていた。   

ご存知の方も居るかと思うが、東口改札に続く階段は、西口御用達の予備校生に喧嘩を売っている。君たちには、悠長に階段を昇り降りしている余暇など無い!諸君よ、いつまでもとは言わない。合格するまで、西口改札を急ぎ続けるがいい...... 

  僕は、3年急ぎ続けた。志望してしまったのだから仕方ない。結局、僕は文転してなんとかW大学の法学部に進学し、卒業後、紆余曲折あって今は予備校の数学講師をしてそれなりに稼いでいる。3回も落ち続けると、何故自分が受からなかったのかが、自ずと分かってくる。その失敗要因を少々哀れで、かつ勇敢な浪人生達と分かち合っているというわけだ。   

ある4月初旬の朝、少女Bは酪農会館の前にある自販機で紙パックの牛乳を買って飲んでいた。僕は、ちょっとした好奇心から少女Bが、牛乳を飲み干すのを見届けようと思った。僕は、6Pチーズを買って、それを立ち食いするのを日課にしている男、すなわち青年Bを装った。   そして少女Bは、牛乳を飲み干すと紙パックを律儀に折り畳んで捨て、その黒く艶めく長い髪を僕の知らない巻き方にして後頭部にまとめあげた。なにかいけないものを見てしまった気がした。白い手、ヘアセットする効率的な手捌き、細い腰を屈ませて露わになった胸元...... 僕は、あっけなく彼女に好意のようなものを抱いた。知りたい、話したい、手を繋いで歩きたい、触れ合いたいとかそういう可愛らしい願望ではなく、別の圧倒的な何かだった。ここで、わざわざ率直に述べる必要もないかと思う。人格を疑われるかもしれない、そういうことだ。   

少女Bは、医学部受験専門塔へ入っていく。今度は、僕も偶然ではなく必然として同じビルに入館する。 その頃僕は、実家が経営する総合病院の跡継ぎを期待されていた。祖父と両親が医者で、祖母は薬剤師だった。祖母は、実家の隣町で自身の薬局を開業して悠々と暮らしていた。田園地帯を走り抜ける深紅のベントレーとタフな老女。なかなかの見物だったと思う。

  広い講義室で少女Bは、階段状で放射状に広がる座席の1番前の列に座った。僕は、丁度中央あたりの席を取り、数学講師がリズミカルにたてるチョークと黒板の接触音に耳を澄ませた。理工学部志望なら分かるが、そもそも医学部に入ってから数Cの知識が求められるのだろうか?もっと志望校の偏差値を下げれば、受験科目ではなかった大学も少なくなく、切迫感を完全に欠いていた。  

  珍しく睡魔にうち勝ったある梅雨の午後、講義室で少女Bを見かけたので、最後のコマまで目を離さないように留意して、帰り際、彼女の後をつけた。 ビニール傘がひしめく踏切待ちの人だかりの中、彼女の差す赤い傘は際立っていた。 僕が小田急線の激しい往来を眺めていると、赤い傘は、ぴくぴくと蠢き出し、やがて跨線橋の高みを渡っていった。僕は、高尚な絵画にでも触れたかのようにうっとりとその一部始終を見届けた。僕が、平常心を取り戻した時にはもう遅かった。地下街を疾走したが、少女Bを見つけることは出来なかった。スニーカーの薄い靴底をこれほどまでに憎んだことは無かったかと思う。

   2  

  予備校生にとって夏は、なんとも苦々しい。なぜならば、午前中から制服の現役生と幾度もすれ違わなくてはならない。学食は、最悪だ。部活の勇退話が、1番刺さる。そして、彼らの成績は夏以降に、著しい伸びを見せる。僕らは、しゃかりきになって勉強しないと必ず追い抜かれてしまう。

  それは、誰もが気怠く歩く8月初旬の午後のことだった。 僕は、いつものように少女Bの帰りを待ち伏せて代々木から新宿方面へと彼女の後をつけた。その日は快晴だったが、少女Bは雨の日にいつも彼女がそうするように、地下街へと続く階段を降りていった。  

  少女Bは、新宿駅の西口ロータリーまで歩き、そのまま都庁方面へと向かった。少女Bは、地下道の隅に置かれた公衆電話で通話を始めた。僕は、携帯を紛失したか、家に置き忘れた為に、家族への迎えか何かを頼んでいるのだろうと思った。  

ところが、少女Bが帰路につく気配が全く無いことに僕は気がついた。 少女Bは、いくつかの地下道と地下街を往来し、彼女が踵を返すその度に、僕は無理矢理に身を隠し、ひやひやしなくてはならなかった。 どうしてこんな所にリリース品の大きな鉢植えが幾つも置かれているのか?誰も僕みたいに、身をひそめたりはしないだろうに。 

 彼女は、1度コンビニへ寄り、ドラッグストアのテスターで化粧を施し、コスチューム屋でプラチナピンクのボブスタイルのウィッグを買った。 少女Bが証明写真機に入って行く。しばらくは出てこないだろう。僕はあたりを見回した。 僕は、彼女をつける為に都営地下鉄新宿線に向かう道を一直線に歩いて、改札で彼女を見送ってから、ひとり代々木まで引き返したことしかなかったので、自分がどこにいるのか分からなくなった。年甲斐もなく、迷子の気分だ。 

  僕は、幼い頃親に買い与えられた二層式で箱型の木製迷路玩具を思い出した。その中には幾多の壁と落とし穴が誂えられ、小さな鉄球が箱の中を上下左右に移動した。落ちる、墜ちる、堕ちる、と思った。 

  落ちた僕は、地下広場で少女Bが搾りたての抹茶ソフトクリームを器用に舐め回しているのを凝視していた。僕は、やけになって少女Bと同じソフトクリームを注文して食べ始めた。制御不能な突端が、熱い。

  やがて少女Bは笑った。正確に言うと、僕に笑いかけた。僕が、どんな表情を浮かべるべきか考えていると、仕立ての良いスーツを着た中年の男が現れて抹茶ラムネチーズソフトクリームを注文した。 少女Bは、しばらく男のソフトクリームの扱いを眺めたあと軽く声をかけ、男の腕をとって歩き出した。

 男は、ただ一言、  

  「君悪いね、大人にこんなの食べさせるなんて」 

  と言った。  

僕は少女Bと男がどのような会話を交わしたのかは分からない。しかし、抹茶ラムネチーズソフトクリームは男の本望ではなく、待ち合わせの暗号だったのだ。それでも、男は最後まで食べ切った。男の律儀さが垣間見えるようだった。少女Bは、狡猾だ。相手は自分が選ぶ、ということだ。  

僕も、ある種選ばれたということか?  

いずれにせよ、僕は二人が地上へと続く階段を昇っていくのを見届けた。こういう時、探偵ならば冷たい壁に背中をつけて足音の歩数でも数えるのだろうか。僕はただ、着痩せしているだろう男の背中を眺めていた。  

  3  

夏から秋にかけての少女Bと僕の日課はこうだ。 朝、少女Bは酪農会館前で紙パックの牛乳を買う。僕は、チーズを齧りながら彼女の喉仏の昇降を見届ける。僕らのあいだを顔を鈍色にさせた予備校生の集団が横切る。少女Bが髪を結わえる。頃合いを見計らって医学部受験塔に向かう。 しかし、僕らは並んでは歩かない。他人のふりを堪能する。少女Bは放課後、コインロッカーに赤本とリュックサックを預け、小ぶりなチェーンバッグに持ち替える。身支度が整うと、証明写真機で写真を撮り、ソフトクリームを撫ぜながら成人男性A、或いはB、或いはCの到着を待ち構える。   

「抹茶チーズラムネソフトクリーム」  

  と注文が入ったら、少女Bは査定を開始する。僕は、少女Bが重要視するのは男たちの懐具合だけだと思っていたが、髪或いは頭皮、爪、靴と衣服の手入れも大事な項目だということを学んだ。美醜とかそういうことではなく、清潔感がモノを言うらしい。   彼女は毎回同じ階段を昇っていった。15B出口。僕は、それがどこへと続くのかは気にならなかった。15B出口は、15B出口。それだけで構わなかった。僕は、少女Bの帰りを都営新宿線の改札前で待っていた。大抵、日本史と世界史の副読本を読んで過ごした。将来、美術館や街歩きでのデートに役立つ科目だと思ったからだ。もっとも相手の教養や好奇心の度合い、その方向性に左右されることではあるのだが……   

少女Bは、常識的な時間目掛けて改札を抜けて帰っていった。僕は、恵まれた透明人間だったのだと思う。 

  4   

12月中旬。僕は、改札前で少女Bにビンタを食らった。 

  少女Bは、  

  「見てるようで見てないのがそんなに楽しい?」

  と言った。 僕は、少女Bのこめかみに小さな黒子をひとつ見つけた。   

「1回やってx円。それが、私」

  僕は、気づくと少女Bの頰を打ち終わっていた。彼女は、静脈を浮き上がらせた左手でほっぺたを抑えていた。さすがに僕でも、急に虫歯が痛み出したとは思わなかった。 彼女は続けた。   

「私だったかもしれない」 

  僕は、彼女と15B出口を昇りドーナツショップに入って少し話したあと、四季の路を並んで歩いて現場へと向かった。 

  5   

その日の正午過ぎのことだった。歌舞伎町のラブホテルで女子高校生の絞殺体が発見された。被害者は、都内名門校の生徒だったという。

 後日、逮捕された容疑者Qは、   

「誰でも良かった。悪いことをしているので懲らしめて見せしめにしようと思った」 

  と言った。

  少女Bは、故人に手向けるには、やや華美な花束を携えながら、僕に現場となった部屋の詳細を伝えた。そして僕は、全面鏡張りの部屋で無限に増殖するセーラー服の少女を思い浮かべ、容疑者Qが正しく罰せられることを願った。グレーゾーンの恋愛行為としての売買春。僕は、少女Bに振るったビンタを恥じた。僕も、ある種、容疑者Qと変わらない。 

  手ぶらになった僕らは、広場へと出た。その広場の中央では、コンクリートで出来た鯨の噴水が潮を噴いていた。雪がちらつく中、稼働し続ける噴水を不思議に思ったのを覚えている。  

6 

  メリークリスマス、ミスターA或いはB、或いは。 

  毎年この季節になると僕は、湯島天神へ出掛けて生徒に配る合格祈願のお守りを買い、祈祷を受ける。ただし死者への祈りは、どのように捧げればよいのか、未だ判然としない。

   少女Bは、あの冬に続く春、T大学の医学部へ合格し進学した。彼女はその後、産婦人科医になったと聞いている。  僕は、境内にひしめく絵馬のひとつひとつに目を通す。そこには、おおよその場合、境遇も顔も知らない少女Aや少年B、或いはそれ以外の願望と名前が書かれている。

 僕は、名乗る。自分から名乗る。  

鳩時計で目を覚まし、BBCを聴きながら筋トレをし、シャワーを浴びて髭を剃り終わったら質素な朝食を摂る。定番のスキニーパンツが入らなくならないように、下半身は鍛え過ぎないように留意する。柄シャツと授業で羽織る白衣は、前日までにアイロン掛けを済ませておく。今のところは、予備校の数学講師をして生計を立てており、趣味は切手と腕時計の収集。酒とタバコの美味しさを解さない。好きな作家はM。最近、日系英国人作家の新作を世界同時発売されたにも関わらず、ペーパーブックで読んだ。翻訳の仕事は、とっくの昔に頓挫した。将棋よりも麻雀の方が得意だ。ギャンブルはしない。宝くじすら買ったことが無い。よくコンビニでエクレアを買う。また、通勤時にはテクノを聴きながら電子版の日経に目を通す。稼ぎの割に、食堂の800円の定食が高いと感じる。滅多にタクシーを使わない。

 そして、誰よりも僕について考えている。それが僕だ。 

 特に陰鬱な朝というのは今の所は無い。特記するならば、3週間に1度、表参道の美容室へ通う為、プラチナピンクの髪の僕はそこまで野暮ったくは見えないだろうということくらいだろうか。 

  7

  毎年、春に既卒生の数名からラブレターが届く。僕は、丁重な礼状でいなす。教え子に手を出したことはない。恋人はいない。だからといって、少女Bを思い続けているわけでもない。  

最近、同僚の古典講師と話していて代々木の時計塔の中身が、ハリボテと知った。その講師は、西口の池が埋め立てられたことや、四季の路には昔、都電路線が敷いてあったことを教えてくれた。僕は、あの日少女Bと辿り着いた鯨の広場について尋ねた。 古典講師は、笑いながら聞いたことが無い、と言った。しかしその人は、急に怪獣が出現する街だから何が起こってもおかしくはないと、僕を気遣った。

 僕は、気がつくと左手の薬指を見つめていた。  

ある晴れた午後のことだった。   

Fin

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