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編集者としてのコンプレックスと親の呪い

教育というのは面白いものだ。
親が子にあたえる「教育」には、「価値観」が如実に現れる。
学歴が大事だと思えば、子どもに良い学校を目指させるし、英語が大事だ、となれば幼少期から英語教育や留学を検討するだろう。

その価値観がどうやって醸成されるかといえば、親の成功体験からくる場合もあるに違いない。だが、自身が歩んできたキャリアでの「つまずき」から得た教訓が、子供への教育に転化している場合も少なくない。

私の場合がそうだからだ。

編集者のコンプレックス

書籍の編集者職についてきて、ずっとコンプレックスに思っていることがある。
「自分は面白くない」
という、自意識だ。

23歳で就職活動を始めたとき。
「スーツを着て仕事なんてしたくない。就職するなら、本を仕事にしたい」という消極的選択から出版社を志望した。結果は全滅で、他業種に入社することになるのだが、いまも忘れられない出来事がある。

模擬面接である。

T社の現役雑誌編集者だという人物が主催する就職対策に参加し、集団面接の練習に臨んだ。そこで志望動機やらを話すのだが・・・
もう最初に口を開いた瞬間から、その相手が不愉快そうなのである。
その後のフィードバックで、貧乏ゆすりをしながら
「君ネェ、おもしろくないと聴いてもらえないんだよ」
「面白いネタないの?」
さらには、隣の女子には
「いいネェ…!おもしろい!」とご機嫌である。

実は、面白くない自意識の根は深くて、中学生の頃から自覚があった。
中学時代はいわゆる学校の勉強ができたので、勉強ばかりしているから面白くないのではないか、ダウンタウンの番組を見て少しも笑えない自分は、やはり勉強をし過ぎないのではないか(しかし、勉強をし過ぎている意識はなく、そんなに頑張っている認識もない)。世間の男子が穿いている「Gパン」なるものをはけば今時っぽいお笑いも理解できるようになるのではないか・・などと妄想を巡らせた。(書きながら思ったが、これぞ中二病なのかもしれない)

そんな思春期と就活(氷河期でした!)を送った自分にとって、「人前で面白い話しができる人物」というのは、憧れだった。

自意識過剰だった頃の自分が、「編集者」に憧れたのも納得である。
森羅万象の教養を持ち、多くの引き出しから、相手に合わせた話ができる輝かしい職種に映っていたのだから。

コミュニケーションが得意な人、人前で悠々と話せる人、伝える・話すことで人を動かせる人、そんな大人になってほしい。

自分が苦労をした道で、持ち合わせたら良かった武器を、子どもに渡しておきたい。それが、教育の選択に影響を与えている。
だからこそ、軽井沢に移住をして、異年齢でコミュニティをつくることを大事にする学校に通わせているのだと思う。

親の本音

前振りが長くなったが、7/19配本であさま社の3冊目の本が出る。

この本は、外科医で作家の中山祐次郎さんが、2人の息子たちに向けて人生で大切なことを伝える本だ。

ここで語られている内容は、一見すると一般化された「人生で大切なこと」であるようにも見える。
だが、決定的に違うのは、「自分の子ども」に向けて語られているという視点(あるいはバイアス)である。

例えば著者は、「嫌な人がいたら全力で離れろ」という。

小さい頃は、「誰とでも仲良くしなさい」と言われる。だが、それは無視して良い。それを言っている大人は、誰とでも仲良くしていない。大人こそ、嫌な人がいたら距離を置き、自分の快適さを保っているのだ。

「医者の父が息子に綴る 人生の扉をひらく鍵」P66

果たして、上司や先生の立場で、「嫌な人がいたら距離をおけ」などと指導するだろうか。「多様性」や「寛容」が叫ばれている現代に。
他にも、「自分なんかが医者についていいだろうか迷った」時のアドバイスとして、

安心してほしい。たいした使命感などなくても、みんなちゃんとしたお医者さんになっているから。

P74

と語りかける。

本書は、徹底的に親目線で書かれているのである。
お金についても、ブラック職場での振る舞い方についても、最悪な上司に当たってしまった時の対処法についても、アドバイスが、徹頭徹尾「親」なのだ。

お金についても赤裸々に語る。

もちろん、どんな仕事だって尊いし、どんな職業も等しく大切だ。でも、働く環境が違い、手に入れるお金が全然違う、ということはこの世界の厳 げん然 ぜんたる事実なのだ。このことから決して目を背けてはならない。
もしかしたら君は、「お金なんていらない、そんな生き方は汚い」と思うかもしれない。

P20

世の中には、それっぽい言葉が溢れている。
SNSをひらけば、「本音で語っているふう」の耳障りのいい言葉があふれている。仕事の成長を下支えしてくれるような「親身」っぽい言葉だってたくさんある。それを励みに1日を過ごすことはできるのかもしれない。

けれど、SNSの言葉の時間軸は極端に短い。
あなたの人生の20年後、30年後を見据えて、本気で、本音で、考え尽くして語ってはくれない。

しかも、本書で語られているのは、マウンティング的に大きく見せようとした成功体験ではない。子どもが、これから通る人生の中で「落とし穴」に落ちないようにと、必死で考え導き出した「失敗体験」なのだ。

これは親から子へ語る点の、特徴の2つ目だ。

二浪の末に渡った異国の地で孤独を味わい、酒の飲み方も下手だったこと。
外科医として職場で干され、執刀の機会を奪われたこと。
どれも実話だ。
だからヒリヒリして切実でもある。

そこでどう振る舞ったか。
一般的な「正解」ではないだろう。だが、だからこそ、人が滲み、この人でしか言えない教訓が引き出されてくる。

「泣くな研修医」というベストセラーを書き、外科医としてもステップアップしてきた著者は、その30代を振り返って、こう告白する。

そうか、「勝ち負け」と「幸せ」はまったく別のものなのだ、と。
勝ちまくった人が幸せだろうか。羨ましいけど、幸せそうには見えない人ばかりだ。有名人なんて離婚したり薬物をやったり、プライベートを暴かれたり、嫌な目にあってばかりではないか。
僕は、はるか遠くに掲げた目標の「勝ち」という看板を外し、代わりに「幸せ」に掛け替えたのだ。

そんなのは綺麗事だ、負け犬の論理だと思うだろうか。

P124

人生について書いてはいるが、これは自己啓発書ではないと思う。もちろん半生を振り返った「私の履歴書」的なエッセイでも、もちろんない。

ただただ、子の未来が無用なつまずきと絶望で溢れないために、親がでしゃばって書いた、親バカな我儘なのだ。

そして、僕は編集者として以上に、一人の親として、この「親バカ」を届けたいと思っている。

親の呪い

かつて20代の私が、絶対に編集者に向いていないと自覚していながら、それでも執念で潜り込み、15年以上、本にまつわる仕事を続けているのはなぜだろう。

先日、うちの母親が孫(つまり私の娘)に会いにきた時にこんなことを言っていた。

「昔、あんたには本好きになってほしくて、図書館に毎日連れていってたのよ〜」

聞くと、高卒の母はそのコンプレックスから、本が好きな子に育ってほしいと願いを込めて、ひらがなを幼稚園から書かせてみたり、図書館に連れていったりしていたらしい。

それを聞いて、腑に落ちた。

「結局、親の敷いたレールの上を歩んでいただけだったのだな」

なぜ、自分が向いていない、編集者の仕事をしているのか。
「すごい決断!」と言われたりする出版社づくりも、なぜそれが自然に意思決定できたのか。

幼少期に親がそのコンプレックスから、自身の失敗体験から、子どもにかけた「願い」。それは45年経っても、呪いのように自分の中に居座ってしまっていて、人生を支配してしまっていた。

自分で人生を選んで、決めてきた、とすっかり思い込んでいたのだけど、なんのことはない、ほとんどすべては親の思惑(レール)の上を滑ってきたの過ぎないのではないかと。

そんなことを思った瞬間、私はすべての親と子の分かち難く結び付いた呪いのような関わりを祝福したい気持ちになった。

親のおせっかいが、ワガママが、どうしようもなく、未来へと影響を与え続けていく。そんな怨念のようなものを引き受けながら、各人はレールの上でバタバタとしているのかもしれない。


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