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Note主の忠告と地獄門巡りについて、すこし書きたいです


こころそのものをそっと置いている。

読んでいるわたしは、あなたが再現する想いに連れられ、微笑んだり、悲しんだり。ほっこりと、どこか懐かしい感じもします。

飾りの無い、素を晒すって実はすごく難しい。

こう書いたら笑われる?こんなんじゃ伝わらない?そういった想念が書き手をよぎる。

でも、あなたはそういう疑念も抱きつつも、どこか既に”諦め”ていた。

わたしは、どこかに悲しさや寂しさを抱えた、そのあなたに触れたくなって、またあなたのところを訪れてしまう。。

あなたの文章について書きたいです。


1.地獄の門にようこそ

ダンテの叙事詩『神曲』に登場する地獄への入口の門。

そこには、「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」の銘文があります。

「地獄の門」は、深い絶望をあらわす表現ですが、実は、Noteにも「地獄の門」があって、こう書かれていました。

「創作活動でもっとも大事なことは、創作を楽しみ続けること、ずっと発表し続けることの2つです。

ページビューを増やすことよりも、お金を稼ぐことよりも、あるいはフォロワーを集めることよりも、何よりも大事なことなんです」

サイト主がわざわざクギを刺して置いています。人は”創作を楽しむ”ということが出来ないものであるという事実を、主は指摘していると思います。

それでもここをくぐりたいの? そうか。。。

ならば、虚栄心を捨てよ、と主は入門希望者に言っていた。

苦しむであろう者が、この門を通るにあたっての覚悟を要請しました。それは、親切心からではないでしょう。

偉そうに聞こえなかったのは、ある種の悲しみと絶望を主が既に経験してしまっているからでしょう。


この門に書かれた言葉を見て、自分にはそれは出来そうもない・・・とがっかりして、やっぱりブログ発信なんか辞めよう、、という人は少ないと思います。

そうか!、フォロワー少ないことにがっかりしている場合じゃない!創作、そうさく、ソウサクするぞっ!・・・みたいな。

自分を見直し、叱咤激励し、奮起し、再起する人の方がうんと多いと思います(わたし自身がそう)。

でも、しばらくして気が付きます。グルリ1周巡ってふたたびサイト主の門の前に来て、上を見上げている自分の姿に。

なぜわたしたちがページビューやフォロワーの数を気にしてしまうのか?という問いは、あまり本質ではないでしょう。

最初から、わたしには「創作」という言葉が憧れでしかなかったのです。

創作というスローガンに踊らされましたが、やっぱり認めて欲しいという動機が書き手をずっと駆動している。

創作っぽくすれば人気者になれそうだとは思うのですが、自分が生み出したいモノ自身のことがよく分からない。

創作って、芥川や漱石せんせいや村上春樹のこと?

創作というものを突き詰めて行って、それと心中しようなんて人はあまりいないでしょう。(多くの作家は自殺してゆきました)

いいえ、「創作する」というのは、「愛する」や「癒される」みたいなありふれたものだと思う。でも、突き詰めると、分からなくなるもの。

Whatで定義するより、howで周囲を表現すべきことかもしれません。自分の中を掘ることは難しいことですから。



2.地下2階へ

わたしたちの中の意識は、多層に成りずっと深いところまで続いているんだそうです。

地下2階に降りただけで、もう言葉(思考)では記述できなくなります。

じっさい、村上春樹さんは、そこはすごく恐ろしいところで、出れなくなってしまうかもしれないと脅します。

重層化している意識界をさらに下がれば、先祖なり哺乳類がDNAに埋め込んだ”意識もできない層”となるでしょう。無意識、あるいは潜在意識はたしかに在る。

creativityを定義できないのは、これらの言語表現を許さない源から湧き出て来るものだからでしょう。

ああ、、地下1階にさえ降りようとしないわたしは、実に賢明です。

そこから下が恐ろしいところだと直感しているからです。

だから、外の刺激(評価)で自分を測ることにします。ぽちっと押してくれた人の数で自分の現在を測ろうとする。

でも、せっかく「創作、そうさく、ソウサクするぞっ!」と誓った人のたいはんは1年後、半分になるでしょう。

たぶん、数年もすれば諦めて、たいはんがすっと去ってる。

わたしのように10数年書き続けるなんて人は、この地獄門巡りを繰り返すほどに、たまたま足腰強くて、かなり暇だし、友達もいないんでしょう。


サイト主が記した門には忠告がありました。「創作を楽しみ続けること」。

村上さんは、地下2階で見つけ、それを地上に引き上げることは、とても楽しいともいっています。それが彼の「創造」。

わたしは?

書き続けていると、「あっ、そうだ!」と思いつきます。

「そうだそうだ、きっとそうだ」と発見の喜びに促され、わたしは文章を足したり削ったりする。書いていてわくわくすることがよく、あります。

じぶんで書いた文を見直して見ると、内から湧いて来た喜びクンに夢中だったため、世間の視線を意識していない。(場合があります)

結果的に、素にじぶんをさらしている。そういう時があります。

そういう文章は、じぶんで見直しても、無理を感じません。じぶんで書いたものなのに、また、後日、読みたいと思い出す。

そんな自画自賛の状態はヤバイんじゃないのか?とあなたはいうでしょう。

でも、発見した喜びで書かれた場合、それは喜怒哀楽のどのようなテーマでも、わたしのエゴが肥大化していません。

喜びワクワク、ルンルンで悲しい話が書けるのか?

ええ、わたしの意識は多層でしょうが、また多軸(多人格?)でもあります。

その悲しみをもっとこう書いたらよりリアルに近づける!という天の声に、わたしは同時に喜んでいるのです。

悲しみと嬉しさが共存します。

太宰のように、書き手が書いたものとどこまでも心中して行くということはわたしの場合、ありません。


楽しんで書きなさいというし、創造してねとも言う。でも、楽しむという言葉も創造という言葉も思考でしかありません。

わたしがあなたの文章をまた、読みたい!と連れていかれてしまう時、わたしはあなたに思考を見ていません。

「楽しむ」「創造」のリアルは、あなたが素に自分を降りて行って、そこで見つけた喜びに歓喜した状態でしょう。「ああ、そうだ、そうだ、そうだった!」ってあなたは見つけ、書いたでしょう。

ただし、あなたが、歓喜爆発、狂喜乱舞、行け行けGoGO!とは表現していないのは、どこか諦めているんだと思うのです。

きっとあなたも多軸なひとで、海岸で見つけた綺麗な貝殻を拾い上げ、喜んでわたしたちに差し出した。ほら、こんなに綺麗よっ。

でも、きっと、それは多くの人たちが喜んでくれたことは無かったものだし、じぶんでも表現し尽くせてはいない。

あなたはきっと多く今まで書いて来てかなりヘタレてはいるでしょうが、

きっと「ああ、ここに居た!」という発見の喜びには勝てない人でもあるでしょう。

その喜びの来し方をあなたは、潜在意識だとか地下2階だとはっきり認識はしていないかもしれませんが、とにかくあなたは喜びに再会したのです。



3.あなたへの唯一の不満

あなたはどこかにシブシブと躊躇もしている。

わたしが、あなたの文章に郷愁を感じてしまうのは、この地獄の門をくぐった者には喜びと悲しみが横たわっているからだと思う。

きっとあなたの文章も、大勢がチヤホヤせず、バズルこともないし、エモイぃーなんて言われることもないでしょう。

でも、たしかに、あなたはわたしと同じように創造の門をくぐってしまったのです。

自己の深く広い世界で無邪気に遊ぶ喜びをあなたも知っているのです。

そのような者たちはけっして世にドミナントとはならないでしょうが、また、同じ仲間に時々出会います。仲間は、素に触れたくなってまたあなたを訪れるでしょう。

ただ、わたしはあなたが寡作なのが不満なだけです。


P.S.

upした写真は、ロダンが作成した「地獄の門」。中央にあの”考える人”が配置されています。

1880年、ロダンは新しく建設される予定のパリの装飾美術館のために入口の門扉の制作を政府から依頼されます。

ダンテの熱烈な愛読者であり、既に1876年に『神曲』に取材した群像を制作していた彼は、ためらうことなくこの門扉を「『神曲』を表わした低浮彫」の連作によって作りあげようと決心します。

以後、死ぬまでしつこくロダンはこの大作の制作に取り組み、彼の多くの独立した作品が「地獄の門」に関連して生み出されてゆきました。

彼にも、「あっ」と気が付いて生み出すという喜びがあったでしょう。それはじつに単純な喜びだったと思うのです。

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