見出し画像

善と悪。それは一体なんだ?

今日3歳の息子が意図的に紙パックに入ったお茶を溢す事件が発生した。

その事件は息子がご飯を食べ終わる前に私が席を立ちソファーで携帯を触っていた時に起きた。

このような事件はよくあることだ。

「よくあること」。。。。

私は叱る前に立ち止まり、冷静に状況を分析する。

私の妻はよく「食べ終わるまで、横にいてあげて」
と私に教えてくれる。それに私は同意し、受け入れている。だがしかし、私は直ぐに自分の事を始める。

家族内憲法(ルール)としては、私は息子がご飯を食べ終わるまで横にいる。という事が決められている。しかし、それを私は破った。その為、悪人は私なのである。そして私は息子に尋ねた。

「父ちゃんが悪かった。
一緒にご飯食べてないからだね。」

そして、息子は笑顔でこう言った。

息子「うん、そう!」

私の罪が確定した瞬間だった。そして同時に「悪い事とはなんだろう」と思った瞬間でもあった。

早速調べてみたら、善いか悪いかは誰かから評価されて決められる事だという事がわかった。次に評価とは何かを調べた。一般的に評価とは下記が挙げられる事がわかった。

1 品物の価格を決めること。また、その価格。ねぶみ。「評価額」

2 事物や人物の、善悪・美醜などの価値を判断して決めること。「外見で人を評価する」

3 ある事物や人物について、その意義・価値を認めること。「評価できる内容」「仕事ぶりを評価する」

よって、善い事・悪い事=個々の考え方

個々の考え方である以上、自分の考えを持つ必要があるということ。

したがって、なぜ善い事なのか、悪い事なのかを教える時は自分の考えを言葉にしなくてはいけない。

悪い事を誰かに指導するとき、一般的な常識などという表現で片付けようとしていないだろうか。法の下で裁く資格もないただの人が、あたかも裁判官のような立場で人を裁く事がなぜ出来る。

正にこの行為は笑止千万である。(冨岡義勇風)

法の知識がないのであれば、少なくとも自身の考えは示すべきだと私は思う。

浅はかな知識で知ったかぶりをしている連中がこの世界にはごまんといる。そんな人を裁く法律を作って欲しいものだ。

そして、悪人を裁くルールがあるなら善人を認めるルールも欲しいものだ。

それがないから善人になろうとしないし、堂々と善人だと言えない。そして社会に認められる善人になろうとすると有名にならなくてはいけない。且つお金がないといけない。なんて不条理なのか。

悪人はテレビに出て名前を知ってもらえるのに、善人は努力をして有名になってお金を持ってからでないと世間から善人と認めてもらえない。

そして、善人になりたい人が抱える大きな悩みの一つに偽善者という言葉が世に浸透している事が挙げられると思う。

私は心の底から「私は善人です」と言える世の中を作りたい。なぜなら、「私は悪人です」と毎日ニュースで流れるからだ。そんなニュースは社会を不安に陥れるだけであり、もう知りたくもない。

例えば、街のゴミを拾う人にフォーカスして、お昼のニュースとかで「今日午前10時ごろ、〇〇県〇〇市の路上でゴミ拾いのおじさんがいました。皆様、是非真似しましょう」とかあっていいと思う。

善い事、悪い事は誰かの評価で決まる。

なら、善い事を世間に対して広げていく活動の方が僕は世界を日本を元気にすると思う。

そんな事を考える事が出来た1日でした。

おやすみなさーい♪





この記事が参加している募集

子どもに教えられたこと

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?