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ミナミノスタルジア 「photograph」は「光で描いた絵」?「光が描いた絵」?
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「写真」は英語で「photograph」ですが一般的には「光で描いた絵」と言われています。「絵」より「画」だと思うのですが、それより気になっていることがあります。「光で描いた絵」ではなくて「光が描いた絵」ではないかなと。
「光で描いた絵」はカメラマンつまり人間が主語ですが、「光が描いた絵」で主語は光なのです。カメラマンにできることは光が描こうとする「画」の邪魔をしないことなのですが、カメラマンの「我」が邪魔をして歪めてしまっているように感じることがあります。
「美意識」「センスのよさ」「ドラマ」「ストーリー」「ポエム」とかで、「世界」を「私」の見たいように、思うように変形させている気がするのです。「世界をありのままに見る」のはとても難しいと思います。「世界をありのままに写す」のはとても難しいと思います。
写真は「世界」を簡単に変えることが出来るツールになりました。写真は「私」を「なりたい私のいる世界」に連れて行って会わせてくれるのです。「光が描いた絵」である「photograph」を写すことは極めて難しく、「光で描いた絵」である「photograph」になるのは普通なんですね。
「ありのままの世界」は「私の好きな世界」「私が見たい世界」として「光で描くこと」で、「写真」というものになっているのではないでしょうか。今も「写真」は「真を写す」のだとしたら、「私の好きな世界」「私が見たい世界」は「私」にとっての真実として、写真は写してくれているのです。
ただ、「光で描いた絵」ではなく、ごく少数の写真家が「光が描いた絵」である「photograph」を捉えることが出来ていて、その「写真家」たちの関心は「私」ではなく「世界」なのではないでしょうか。「photo」は「光」のことですが「光」は「世界」のことなのです。
その「写真家」たちが写真を撮る時、意識のベクトルは「私」から「世界」へ向かうのであって、意識の中心である「私」へ「世界」を引き込もうとしているのではないのだと思います。「光が描いた絵」である「photograph」に写っているのは「私」ではなく「世界」ではないでしょうか。カメラは、「世界」を写しているのです。
「カメラは、撮る人を写しているんだ。」というのは、写真は「私」を反映させているという、あくまでも「文学的表現」ではないでしょうか。ただ、「写す」と「映す」を混同して使わないほうがいいのでは、と思うのですが。
いずれにしても「光が描いた絵」である「photograph」を撮るには「私」を「世界」から分離させることが必要だと思いますが、簡単なことではないんですね。でも、だからこそ写真は面白いのだと思います。
(2024年7月上旬・大阪、難波、OCAT)