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さよならはこんにちはのせい 「バエ写真」と承認欲求

時々、写真の「バエ」についてネガティブな記事や文章を見かけます。人気のある写真家さんも著書の中で触れたりしています。中にはちょっと嫌みな言い方のように感じることもあります。

正直、私も「バエ」に対してはあまり好意的には見ていませんでした。「バエ写真」=「過剰と言われるレタッチ写真」みたいな偏見がありました。いいえ、今もありますね。「バエ写真」は言ってみれば「ごちそう」みたいなもので、ごちそうばかりでは飽きてくると思い込んでいるのです。

ただ、それは私の個人的な好き嫌いで思っていることであって、嫌みな言い方までする必要があるのかなと、思うようになったのです。よく「バエ写真」は「スキ」「イイネ」に結びつけて語られます。その時、承認欲求という言葉が出て来て、たいていネガティブに捉えられている気がします。

でも承認欲求、全然、OKだと思うのです。OKというより、あって自然なのです。それは人間の根源的な欲望、本能みたいなものではないでしょうか。人間は集団で生活する生き物です。仲間と上手くやって行かなければなりません。認められることで安心します。

「あなたが、そこに確かにいるのですね」

そして、さらに褒められれば、それは「快」に結びつきます。褒められてうれしくない人はいないと思います。

「あなたは、ステキですね、カッコイイですね」

承認欲求自体は、いいも悪いもないんですね。ただ快は脳で感じているとしたら、どうしてもエスカレートしやすいのです。あるところで快は不快になってしまいます。不快はやがて苦痛になって行きます。

脳や心について学問的なことは、ほぼ分からないのですが、気持ちがしんどくなってきて、最悪の場合、気持ちが病んでしまうのでしょうね。このことについては、私には難しいテーマですので写真についてだけ書いてみたいと思います。

「バエ写真」を撮ること、SNSに投稿すること、それが楽しいのなら、生活に張り合いが出るのなら、周りがとやかく言うことではないと思うのです。
要は自分が楽しめているか、その一点だけです。もちろん周りのことも気を配ることは大切ですが、そのこととは別に考えてもいいと思うのです。

その時、意識したいのが自分の中の承認欲求とどう付き合って行くかだと思います。「バエ写真」と承認欲求のネガティブな面とを結びつけて捉えること、語ることには最近になって違和感を感じるようになっています。

「バエ写真」を撮ること=写真を撮ることと思い込まないように気を付けて「バエ写真」を十分に楽しみ、「バエ写真」に飽きたて来たら「他の写真」に向かえばいいのではないでしょうか。自分にしろ他者にしろ「好き」を撮るだけが写真ではないと思っています。

好きを撮ることが写真だと思い込むと、ある時には承認欲求の悪い面、「私のスキを認めてくれないとダメ!」に行ってしまったり、ある時には写真を「自分の好きという世界」に閉じ込めてしまうことになると思います。

写真を撮ることは自分というフレームから出てゆく快感を味わうことです。カメラは「自分の目の前に広がる世界」を写しているのですから。

              (2024年6月中旬・大阪、梅田、お初天神)

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