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フェリックス・ゴンザレス=トレス 2 キャンディーの山

前回までのお話

さて、1990年代初頭のニューヨーク、移民、エイズ、同性愛。差別や偏見と向き合いながらフェリックスはアーティストとして自分なりの表現を模索していました。


そしてその渦中、恋人ロスがエイズでそっと息を引き取ります。

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1991年、ロスを失ったフェリックスは美術館の部屋の片隅に、色とりどりのセロファンに包まれたたくさんのキャンディーを山高く積み上げます。

作品「無題(ロスの肖像 L.A.にて)」です。

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大量のキャンディーが、美術館の隅に山積みにされています。そして展覧会に訪れた人はそのキャンディーを手に取って、口にすることが許されていました。

かつてそんな作品は誰も見たことがありませんでした。美術館に山積みにされ、勝手に持ち去って、しかも食べていい作品だなんて。


この作品にはひとつだけ決まりがありました。鑑賞者がキャンディーを持ち去った分、一日の終わりに毎度キャンディーは補充され、その総量は必ず79.4キログラムに保たれなければなりません。

それはかつてのロスの重さでした。

鑑賞者は、エイズで亡くなったかつての恋人が健康であったころの体重と同じ重量を持つキャンディーの山から、そのひとつを手に取り、持ち去ります。

私たちは、その作品を前にして考えます。目の前にあるキャンディーの山が少しずつ削られ、小さくなっていく様子に、病に倒れた恋人が日に日にやせ細っていく姿を重ね合わせます。あれほどエネルギッシュで魅力的であった人物が、残酷なまでに少しずつ生気と体力を奪われて、やせ細っていく姿を想像します。

しかし、この作品はそれだけでは終わりません。むしろこの作品の本質は別にあるように思われます。それは目の前にあるキャンディーの山ではなく、そのもう一方、つまり鑑賞者の手に取られたキャンディーにです。


鑑賞者によって、ただなんの気なしに手に取られ、全体から切り離された一つのキャンディーは、無造作にその包み紙をはがされて、手に取った人の口へと放り込まれます。そしてそれはその人の体内で、少しずつゆっくりと溶け出します。

鑑賞者は口に入れたキャンディーに特別な注意を払うことなく、その場から離れます。会場にあるほかの展示作品を見ながら、または展覧会をすでに後にして、ただその間もキャンディーを無意識に口の中で転がして、ひょっとすると時にそれはかみ砕かれたりもするでしょう。

キャンディーは、口に入れたその瞬間からゆっくりと消えていくことを約束されていて、人はただ消えていくものに注意を払うことはありません。



はたしてキャンディーは本当にただ消えてしまったのでしょうか。
いったいどこへ。


立ち止まって今一度、考えなおします。口の中でゆっくりと溶けて小さくなっていく飴玉を想像します。

飴の甘い香り、口の中で踊るかけら、その糖はほんの少しでも疲れた体を癒すかもしれませんし、もしかしたら幼い頃の記憶を思い起こさせる力を持っているかもしれません。それは間違いなくほんのささいなことですが、それでも飴を受け取る前と後では、なにかが変わっていることに気が付きます。

そしてふと、私は飴玉を受け取っていることに気が付きます。

ついさっき、なんの気なしにその山の中から勝手に引き抜いただけのひとつの飴を、私は受け取ったのだと感じます。

なぜでしょう。よくわかりません。

ただ、つながったのだと思います。

作品を想って、自分を見つめ、その関係性に思いを巡らせたとき、飴を取って食べた、という以上に、飴を受け取った、と思わされたのです。

飴はただ消えていくだけでなく、私自身によって受け止められました。


それに触れる前と後で自身の何かが変わってしまうことを体験と呼びます。

鑑賞者が作品と向き合い、作者の意図を想像し、そのつながりの中にいるとき、鑑賞者は作品の体験者となります。そのとき人はただ芸術を消費するのではなく、それを受け取り、自らの糧とします。



1992年、ニューヨーク市内の24か所で、一風変わった巨大看板が設置されます。


それはただのふたつの枕の写真でした。


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一風変わっていたのは、その内容の無さでした。


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ニューヨークカルチャーの中心地であり、世界の交差点と呼ばれるマンハッタンのタイムズスクエアには、ビルボードと呼ばれる巨大看板が所狭しと設置されており、今も昔も変わらずニューヨークの賑やかな顔となっています。

しかしフェリックスが街中に設置したその巨大看板は、そんな賑やかさとはかけ離れており、地味でなんでもない写真でした。

それは多くの人たちが日常の中でも普通に目にするような光景です。枕がふたつ並んでおり、それぞれの枕は明らかにその中心がくぼんでいます。二人の人間がついさっきまで、その枕に顔をうずめ、まったく無防備に安らかに眠っていた。そんな親密な雰囲気が写真からは感じ取れます。

人は写っていませんでした。あるのはかつてそこにあった、残り香のような痕跡だけです。


それが大都会ニューヨークの公共空間に、突如現れたのです。


公共。

公共 (Public パブリック) は、私 (private プライベート) と対になっています。


自身がゲイでありエイズで亡くなったロバート・メイプルソープの回顧展が開催直前で突然中止されたように、1990年代初頭のアメリカの公共は同性愛とその表現を認めてはいませんでした。


ただのふたつの普通の枕。それは多くの人たちが日常の中で、普通に目にする光景であり、それはフェリックスにとってもまったく同様でした。そしてフェリックスはそんななんでもない枕を撮影し、ニューヨークの公共に大きく掲げます。

このベッドで寝ていたであろう二人の年齢や出身地、肌の色や政治的思想、またはその性別すらも私たちには確かめようもありません。


フェリックスの日常から切り取られたごく私的なその光景は、取るに足らないごく普通のなんでもないものでした。


それは、移民でゲイでエイズであり、公共として認められずに差別や迫害を受けてきた自分も、実はほかの人たちとなんら変わりなく、ただ当たり前の存在として公共の中に生きていることの証明でした。


つづく










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