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フェリックス・ゴンザレス=トレス 1 ただの時計


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なんの変哲もない、隣り合ったふたつの時計。

ただの時計。


ただの、って何でしょう。

フェリックス・ゴンザレス=トレスという人のお話です。

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フェリックス・ゴンザレス=トレスは、1957年にキューバのグアイマロという小さな町に、4人兄妹の3番目の子として生まれます。

フェリックスが生まれた時代のキューバはまさに激動のその最中。1959年のキューバ革命によって、アメリカからの事実上の独立を果たし、社会主義国へと転換。また第三次世界大戦の危機、核戦争の瀬戸際と呼ばれたキューバ危機に至るまで、世界が注視する一触即発の政治的緊張と社会的不安の中でフェリックスは幼少期を過ごします。

14歳になったフェリックスは妹と一緒にキューバを離れ、スペインやプエルトリコの叔父の家などを転々とします。キューバに残った両親の顔を再び見ることができたときには、すでに8年が経過していました。

そして22歳、フェリックスはニューヨークへ渡ります。

フェリックスが到着した1979年のニューヨークもまた、まさに時代の転換期と言える時期でした。1970年代のニューヨークは、その歴史上最悪と言われる社会的状況で、大不況によってニューヨーク市の財政は倒産寸前、街には失業者があふれ、犯罪率は急上昇、ドラッグが蔓延し、保険金欲しさの放火が相次ぎました。また多くの白人中産階級は郊外へ移住し、人種暴動、ギャング戦争は日常茶飯事でした。

それが80年代にはいると、ウォールストリートでの不動産価値が急騰し、失業率も下がります。それまでの製造業に代わって、サービス業、金融業、教育、医療、観光などの分野が一気に成長し、ニューヨークはアメリカで最大の金融、商業、文化の中心都市となります。

そんな時代が一新し続けるような激動の中にあるニューヨークで、移民としてフェリックスは全米芸術基金、ホイットニー美術館、また国際写真センターなどから奨学金を得て、ひたすらに学問に励み、学士号、修士号を取得。アーティストとしての理論的枠組みを強固なものとしていきます。また1987年からは制度批判を行うアーティストグループ(グループマテリアル)のメンバーとして、社会的な実践を重ね、アートシーンにてその存在感を示し始めます。


そんなうねり狂う荒波のようなニューヨークの生活の中でフェリックスは、彼にとってかけがえのない、人生で最も重要な人物と出会います。
それがロス・レイコックでした。

ロスはフェリックスよりも二つ年下、カナダで生まれました。幼少期のころからさまざまな土地へ引っ越しを繰り返しながら、最終的に1980年、ニューヨークにたどり着きます。1983年、ロスは学校へ通いながらアルバイトをしていたところ、フェリックスと出会います。

フェリックスが美術史に燦然とその名を残すアーティストであるのに対して、ロスはただ無名であるというよりも、そもそもアーティストではありません。有名なギャラリストやコレクター、批評家、なにか重要なアート関係者でもありませんでした。

フェリックスにとって、人生で最も重要な人。ロスはフェリックスの恋人でした。

そして二人は同性でした。


多くの活動家によって広く議論はされていたものの、当時のアメリカでは、心と体の性の不一致、トランスジェンダーはまだ一般的に認められたとはいい難い状況でした。80年代のゲイカルチャーはドラァグクイーンの台頭によって華やかさも増しましたが、その分、明らかな拒絶、嫌悪、偏見も強まり、直接的な攻撃も増加しました。

時を同じくして、人類にとってまったく新しい脅威が生まれ広がり始めていました。1981年のアメリカロサンゼルスで最初の症例報告がなされたのち、世界中で爆発的に広まっていった全く新しい未知の感染症、エイズです。

現在でこそ、その感染経路や予防についての知識を人類は手にしているものの、当初、アメリカでエイズが広がり始めたころ、その死に至る原因不明な感染病への恐怖から、ゲイや麻薬中毒者への社会的な偏見が過熱しました。エイズとゲイカルチャーの問題は、政治的、宗教的問題とも密接に絡み合い、非常に複雑な社会的状況にありました。

当時の一部の宗教系右派団体は、映画、音楽、テレビ番組などのポップカルチャーにおいて不道徳な表現を見出すと、会員全体に不買運動を呼びかけ、スポンサーと議員に宛てて抗議文を送り付け、徹底的に批判することを常としていました。そうした運動は次第に広がり、彼らの宗教的道徳心からはとても受け入れがたい芸術作品に対しても、その矛先は向かうことになります。

そしてそれはアメリカの保守政党にとっても実に好都合でした。特にセクシャリティをめぐる芸術作品に対する共和党保守派の政治家と右派宗教団体の思惑は合致し、彼らは政府の芸術支援組織である全米芸術基金をやり玉にあげ「全米芸術基金は納税者の金を使って、ゲイカルチャーを称揚している」といったネガティブなキャンペーンを全米で繰り広げます。

そうした芸術基金に対する風当たりが社会的にも強まるなか、1989年、ワシントン D.C. で予定されていたロバート・メイプルソープの回顧展が開催直前で突如中止になります。

ロバート・メイプルソープは1980年代のアメリカを代表する写真家で、その作品は独自の高い様式美によって特徴づけられています。そしてそれは明快で露骨な性表現を含むことでも有名でした。トランスジェンダーであったメイプルソープ自身はこの展覧会の数か月前にエイズによって亡くなっています。

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ゲイカルチャーにおける表現を含む展覧会を、公の美術館が政治的忖度によって、突如中止したこの事件には、全国から批判の声が殺到することになります。それは職員の辞職やボイコットなども含めて、大きな抗議活動に発展し、最終的に館長は辞任します。

この事件は社会的マイノリティーであるトランスジェンダーが、自分たちを弾圧する社会に対して怒りの声をあげた歴史的な事件でしたが、同時にそれは当時のアメリカ社会にはびこっていたトランスジェンダーへの無理解や偏見、拒絶を浮き彫りにしました。

この事件は、当然フェリックスにも大きな衝撃を与えることになります。

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 さて、ここで話はやっと冒頭の時計に戻ってきます。

この並んだふたつの時計はフェリックスの作品です。タイトルは「無題(パーフェクト・ラヴァーズ)」。完璧な恋人たち、という意味です。

乾電池を入れて動くタイプの同型の二つの壁掛け時計。これの何が完璧な恋人たちなのでしょう。

どこにでもありそうな、そんなただの時計です。


メイプルソープが亡くなり、彼の展覧会が中止されたその前年、フェリックスの恋人であったロスが倒れます。エイズでした。

目に見えて日に日に弱っていくその体に抗うようして、ここからロスの生活は過激により精力的に動き出します。彼はエイズに関する活動家グループの運営委員として、各地で開催される会議やデモに参加し、エイズ患者当事者として多くの人たちと関わり、理解を訴え、数多くの講演をこなしていきます。そうしてそのまま1991年、ロスはあっけなく息を引き取ります。


フェリックスがこのふたつの時計の作品を発表したのは、ついにロスの体力に限界が訪れ、その死期がたしかに迫ったころでした。


この作品は、まったく同じ形の時計がふたつ、ただぴったりと隣り合わせに並んでいるだけでした。

それを見る人はふと思います。

「なぜ時計がふたつも?」

なぜなら時計はひとつで充分だからです。

時間を知るのに時計はひとつあれば事足ります。

時計をふたつ並べる意味がないのです。


フェリックスは、時計を二つ並べることでそこに無意味を生み出しました。
そして無意味は見る人に「なぜ?」を生みつけます。


展覧会が始まるとき、二つの時計の秒針は完ぺきに同じ位置にセットされ、時を刻み始めます。

なんの変哲もないふたつの時計は、まったく同じように見えて、実は微妙な個体差を持っています。

どんな既製品であろうと、違いは見た目ではわからなくとも、内在しています。

展覧会の始まりに丁寧にセットされた同じ秒針は、展覧会期間の経過とともに、実は少しずつずれていってしまいます。

展覧会期間のはじめに、この作品を見た人は、隣り合ったふたつの時計の秒針がぴったりと合っていることに気が付きます。
長い展覧会の終わりごろに、この作品を見た人は、一見同じように見える二つの時計の秒針が少しだけずれていることに気が付きます。

それは本当にささいなことで、小さな小さな気づきです。
多くの人は、それをそのまま忘れてしまうでしょう。

それでももしかしたら、日々の生活の中のあるふとした瞬間に、この隣り合った二つの時計のことを思い出します。

そしてふと気が付きます。

まったく同じ時を刻むふたつの時計も、いつかはどちらか片方が先に止まってしまうことを。

そして想像します。

もう動かなくなってしまった片方の隣で、まだもう少しだけ時を刻み続けるひとつの時計を。


同性の恋愛が不道徳とみなされ、エイズの混乱による不当な迫害にあい、直接的な表現は展覧会ごと中止に追い込まれる時代において、ただの時計をふたつ並べ、「完璧な恋人たち」という一言を添えただけのこの作品は、フェリックスにとって、自分の感性を守り抜くための、最小でありながら最も鋭い一手でした。


恋人がエイズで死ぬ。

それは自分に残された時間も、もうそれほど長くはないであろうことを意味していました。


つづく





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