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写真家ダイアン・アーバス- 内面を描き撮る

ダイアン・アーバス(Diane Arbus, 1923 - 1971 US)
アメリカの写真家、主にポートレートを撮る。
1923年、ニューヨークに生まる。
1937年頃から、ファッション画家からスケッチの指導を受ける。
1940年代から、父親の紹介もあり主にファッション写真を行う。
それは、18歳になるとすぐに結婚し、夫のアラン・アーバスと共に、
VOGUE、Esquire(エスクァイア)等々のメジャーな雑誌で幅広く活躍した。
1958年、写真家リゼット・モデルに出会い、そのスクールで学ぶ、その影響もあり、その後、*フリークスの表象を行った。このあたりの意味づけは、実に多様だ。
ただ、どのような状態・状況でも人は生きて行かなくてはならないという事とその周辺事情を、ダイアン・アーバスは知り尽くしていたのだろう。
1960年代には、アランと別居する。その頃、マンハッタンのターミナル駅であるグランドセントラル駅周辺でホームレスや、大道芸人など、いわゆる*フリークスの異世界を、長いスパンで心を通わせて、撮りつづけた。
この時期、ダイアン個人で、エスクァイア契約、そして、ハーパーズ・バザー(女性向けのファッション雑誌)との仕事もおこなう。
ただ、突き詰めるダイアン・アーバスのうつ状態はつづいた。
1965年、MoMA(ニューヨーク近代美術館)に3枚の写真が展示されるが、その表象への評価は厳しいものだった。
1967年、MoMAでのニュードキメンツ展では、30枚ものダイアン・アーバスの作品が展示された。
その事で知名度はあがるものの、マスコミには酷評であり、この写真が伝えているフリークスの抱えている内面の問題解釈まで至らなかった。
この時代のアメリカ合衆国は、東西冷戦の中にあり、その流れでベトナム戦争の戦時下でもある、合衆国の一般の人々には、まず、至近距離に徴兵制もある時代に、*フリークスへの内面への理解までは、遠く難しかったのだろう。
国内では、今でいう-専門大学であるパーソンズ・スクール・オブ・デザイン(Parsons School of Design)で教鞭もとっている、そして、ダイアン・アーバスの評価は確立されていった。
1969年、夫のアラン・アーバスとは正式に離婚する。それは、孤独と経済的にも究極の状態の始まりだった。
ここへ来て、その視点と理念、そして人柄ゆえに、メンタル的に、より、病んでしまい・・
1971年7月26日、NYのアパートメントで自ら亡くなった。48才だった。

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以前のnoteに書いたが、ロラン・バルトの「写真:それはかつてあった」
表象は、その存在とカメラマンの視点が重なった時に記録される。
また、ロラン・バルトは、著書「明るい部屋」の中で次のように書いている、「写真家の透視力は見ることによってではなく、その場にいることによって成立する」
まさに、ダイアン・アーバスに於いて、それは成立する・・・

(註)*フリークス:肉体的・精神的な障害を持つ、または、肉体的・精神的嗜好に、健常者と違いがある状態。

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ヘアカラーをつけた男

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(c)Diane Arbus

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