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イサム・ノグチの苦難と成功:第一話 イサム・ノグチの孤独と苦難の連続

イサム・ノグチの苦難と成功 

第一話 イサム・ノグチの孤独と苦難の連続

第二話 イサム・ノグチの逆境と試練の道
第三話 イサム・ノグチの逆境を成功へ


イサム・ノグチ(Isamu Noguchi/野口 勇、1904-1988)
彫刻家、画家、インテリアデザイナー、造園家・作庭家、舞台芸術家等の現代アートに大きな業績を残した日系アメリカ人。
ロサンゼルス(アメリカ合衆国)で、私生児として生まれ、幼少の時から、孤独な中、多くの苦難と逆境に遭遇しながら、数多くの功績を残したアーティストだ。

第一話 イサム・ノグチの孤独と苦難

イサム・ノグチ
イサム・ノグチ

1)ハーフの私生児として生まれるも・・

1904年11月17日、サンゼルスで、レオニー・ギルモア(Léonie Gilmour,1873-1933)の私生児として生まれた時、当時のアメリカで詩人として名を馳せていた父である野口米次郎(詩人、慶應義塾大学教授)は、すでに日本に帰国していた。イサムが2歳で母と来日するまで父親の顔を見ることない生活だった。そして、親子3人での暮らしは僅かな間で終わり、母子家庭となってしまう。
母親のレオニー・ギルモアが、必死に働く母の姿を見て育った訳けだ。
1913年-、野口勇に代わりイサム・ギルモアと名乗り、地元の学校に通う。
その年に、母レオニー・ギルモアは、アイリス(Ailes Gilmour,1912-1993/異父妹)を出産している。

2)幼少期からの苦労は功を成す。

1915年には、1学期間休学し、母親の個人教授を受けながら、なんと、茅ヶ崎の指物師(木材での家具や器具の職人仕事)に見習い修行をしているのだ。
ただ、多くの逆境から、学ぶことは大きいはずだ、誰しも、この年齢の感性やしつけは、将来に役立つとよく言われる。
ただ、母レオニー・ギルモアが建てた茅ヶ崎の家での生活は、自然との接点が多く、イサムの芸術家としての土壌を作ったのかも知れない。
「子供時代を、自然の変化に敏感な日本で過ごしたのは幸運だった。日本ではいつも自然が身近だった」と後日語っている。ただ、ハーフへの差別もあり、孤独な少年時代であっただろう。

3)渡米での逆境

1918年、孤独感の思春期のイサムに、母はアメリカの全寮制学校(インターラーケン校-インディアナ州ローリング・プレーリー)への進学を薦めた。13才で単身渡米し、母の姓イサム・ギルモアと名乗り入学したが、経営上の理由から学校は、わずか1ヶ月で閉鎖。13歳の少年が、なんの身寄りのない異国の地に放り出されてしまうのだ。当時、迎えにこれない母に対してさえ不信感を抱き、思春期の心の傷を深めたと言われる。
その1ヶ月間の学校生活(インターラーケン校)でイサムは、木彫りの天才的な少年と呼ばれた、それは、指物師の元での見習い修行が、功を成したと言うことだろう。
その時に、イサムの援助に、エドワード・ラムリー博士(インタラーケンの創立者)が現れた、その周辺の支援や高配を受け、その後、高校を無事、卒業することが出来たのだ。
そして、コロンビア大学で医師を目指すが、イサムの本質を見極める母の勧めと自身の意思もあり、夜間は美術学校の彫刻専攻(Leonardo da Vinci Art School)にも通った。
そこでは、「ミケランジェロ」のようだ称賛されたて、入学3ヶ月目には個展まで開いた。アメリカの成功の秘話のような話だ。
そして、イサムは、彫刻家として生きることを決意した。この時から「イサム・ノグチ」を名乗る。
憎しみの反面、ただ、東洋と西洋の融合を追及した父、野口米次郎への畏敬の念が含まれていたからだ。

(この先は、次回以降、以下に続きます)
第二話 イサム・ノグチの逆境と試練の道
第三話 イサム・ノグチの逆境を成功へ


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