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民衆と幻想の美 -イリヤ・レーピンの絵画の魅惑


 
 
【月曜日は絵画の日】
 
 
絵画は、現実をそのまま捉えるものではありません。優れた絵画は、どんなに現実に似せて描こうと、その画家の特性や、対象以上の時代の空気感が刻まれていくものです。
 
19世紀後半のロシアの画家イリヤ・レーピンの絵画は、そんな特性を持った優れた芸術の一つです。




イリヤ・レーピンは、1844年、ロシアのハリコフ出身。幼い頃から絵画の才能を発揮し、近所の画家と一緒に、教会のイコンや壁画を描いたりしていました。


イリヤ・レーピン自画像
トレチャコフ美術館蔵


 
19歳の時に、サンクトペテルブルクに上京し、美術アカデミーに入学。

すぐさま頭角を現し、1871年の卒業制作は、アカデミー美術展で金メダルと国費留学を勝ち取っています。
 
パリに留学し、1874年の伝説的な第1回印象派展を鑑賞したり、ロシア中世文学を題材にした名作『水底の王国のサトコ』を完成させたり、サロン展にいくつか入選したりしています。


 

『水底の王国のサトコ』
国立ロシア美術館蔵


しかし、異国で描き続けることに困難を感じ、留学を切り上げてモスクワに移住。「移動展組合」という、ロシア全土を巡回して民衆の教養を高める移動展覧会を行う組合にも入会し、旺盛に作品を制作します。
 
『イワン雷帝』や、『夕べの宴』等、傑作を作り、文豪トルストイと知り合って、称賛されたりしています。美術アカデミーの改革にも乗り出し、校長として、多くの後進の画家を送り出しました。


『夕べの宴』
トレチャコフ美術館蔵




レーピンの絵画の特徴は、繊細な描写による民衆と神話的な要素の融合です。
 
アカデミー出身らしく、自然の描き込みは素晴らしく詳細。と同時に、ふわっとした筆致は、直接その誕生を目にした印象派の味わいが、確実にあります。
 
柔和で的確に人物を捉えた肖像画は、印象派以降の各国の画家でも、トップクラスの腕前と言ってもいいのではないかとも思います。


『モデスト・ムソルグスキーの肖像』
トレチャコフ美術館蔵




そして、そんな技術をもって、民衆の土着の風習を描く絵画や、ロシアの民話や歴史に基づく絵画を描き続けました。
 
前者はトルストイが称賛した傑作『夕べの宴』や『ヴォルガの船曳』等、農村や労働する民衆を見事な構図で描く、自然主義的な作品です。『ヴォルガの船曳』は、クールベと比較する批評もあったようです。


『ヴォルガの船曳』
国立ロシア美術館蔵


 
しかし、そんなリアルな部分にとどまらない、どこか幻想風味があるのが、この画家の魅力でしょう。
 
パリ時代の『水底の王国のサトコ』は、「竜宮城」のような中世ロシアの叙事詩(リムスキー・コルサコフが曲にしています)を題材に、妖しい海の底で魚や海藻、美女たちの姿が鈍く輝きます。

印象派というより、同時代のバーン・ジョーンズや、日本の青木繫の傑作『わだつみのいろこの宮』と共鳴する、幻想的な作品です。


『水底の王国のサトコ』(再掲)



そして、大傑作『1581年11月16日のイワン雷帝とその息子イワン』は、伝説的な皇帝が、怒りに任せて息子を撲殺してしまった事件を基に描いた歴史画です。


『1581年11月16日のイワン雷帝と
その息子イワン』
トレチャコフ美術館蔵
息子のモデルになってポーズをとったのは
『赤い花』等邦訳もある小説家ガルシン。
精神疾患により自殺を図り、33歳で亡くなる


 
薄暗い中世の宮殿と真っ赤なカーペットの幻想風味の中に、身をよじって横たわる息子の美しい構図と、その潤んだ瞳。そして、取り返しのつかないことをしてしまった父親の悲しみと狂気が伝わる見事な作品。
 
本人も晩年まで象徴主義の流行画風を追っていたようですし、こうした、歴史というよりも御伽噺的な幻想味は、他の「移動展組合」画家との違いにもなりました。




レーピンの絵画の多様な側面。それはおそらく、当時のロシアのダイナミズムに基づいています。
 
当時のロシアは、帝政ロマノフ王朝。1856年のクリミア戦争の敗北によって、後進性を痛感し、1861年の農奴解放令等、積極的な近代化を進めました。しかし、そんな急進的な改革は様々な面で歪みを生みます。
 
1860年代には、農民の啓蒙、そしてその先の社会主義国家への転換を目指す「ナロードニキ運動」が興ります。美術における「移動展組合」もその一環です。
 
しかし、その運動が幻滅に終わったことは、ツルゲーネフの名作小説『父と子』にも書かれている通り。

そして、ドストエフスキーの『悪霊』に描かれるようなニヒリズム、無政府主義が生まれ、1881年の皇帝アレクサンドル2世の暗殺をも招くことになります。


『思いがけなく』
トレチャコフ美術館蔵
革命家の男性が入ってくるところ。
壁には暗殺後、死の床の
アレクサンドル2世の写真がある




ロシアに限らず、フランス革命以降に、王政(帝政)から近代国家制に移行する際には、あらゆる国でナショナリズムの定義が行われました。
 
例えば、国特有の民話や神話は、この時期に再確認と伝承が行われ、各国で多くの神話を題材する芸術作品が作られます。土着の伝統とは、近代が必要として定義されたものに他なりません。
 
レーピンの絵画が民衆的でありつつ、神話的な広がりを持っているのは、彼の巨大な才能がそうしたダイナミズムを見事に捉えていたからなのでしょう。


『皇女ソフィア・アレクセーヴナ』
トレチャコフ美術館蔵
17世紀の権力抗争の末に敗れた
皇女の肖像




大きな緊張、矛盾と問題を抱えていたロマノフ王朝期ですが、その緊張は芸術作品としては多くのものを残しました。トルストイやドストエフスキーの偉大な小説だけではありません。
 
籾山昌夫『レーピンと近代絵画の煌めき』(東京美術)によると、作家チェーホフは、レーピンと親しく交際し、作曲家チャイコフスキーにあてて、レーピンこそが、現在の絵画におけるトルストイだという手紙を残しています。
 
文学のチェーホフと、音楽のチャイコフスキー、絵画のレーピン。
 
この三者の共通点は、西洋的な洗練された技法を熟知し、華やかな美しさを持ちつつ、ロシアの雄大な自然や土着性・民衆性が融合された作品を作れることでしょう。

チェーホフの戯曲、チャイコフスキーのバレエ音楽、レーピンの幻想的な歴史画は、近代化政策と社会運動の狭間で花開いた美です。
 
そして、三人とも、典型的なロシア・ロマノフ王朝末期の芸術家でした。彼らの持つ洗練は、やがて来る動乱で消えていくことになります。






三人の中でも長生きしたレーピンが長年住んでいた別荘は、1917年のロシア革命、そして同年のフィンランド独立以降は、フィンランド領になりました。
 
そのため、フィンランドの画家として北欧で展覧会を開かれたり、ソビエトから慰問の代表団が訪れたりと、ロシア革命以降は、かなり微妙な立場ではあったようです。
 
それでも、巨匠として遇されたことに変わりなく、1930年、86歳で穏やかに生涯を終えています。




レーピンに限らず、「移動展組合」の画家は、少なくとも初期は、単純に自然主義や民衆的と言い切れない、洗練と幻想的な美しさを兼ね備えていました。
 
そして、それは、今日でも、決して忘れられず、見直す価値があるように思えます。


 

イワン・クラムスコイ『見知らぬ女』
トレチャコフ美術館蔵
この上流階級の女性肖像画が有名な
クラムスコイも「移動展組合」の中心人物の一人


ひとつの時代や主義が良いかどうかは、それを捉える人の立場によって変わってきます。

主義や主張は、人がいなくなれば、古びてやがて消えていく。しかし、優れた美は、時代を超えて残り、様々な場所へ伝わって、新しい美を産み出していきます。
 
動乱の時代の、人々の空気や幻想を画面に見事に刻み付けたレーピンは、時代の子であると同時に、そうした普遍的な美の体現者の一人でもありました。是非その芸術を味わっていただければと思います。
 



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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