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レンズを通して世界を見る -錯覚の芸術について


 
 
錯覚というのは、芸術にとって重要な要素の一つです。
 
例えば、雪舟法師が罰を受けて柱にくくられていた時、涙でネズミの絵を描いて、お師匠様が本物だと思って驚いたり、あるいは、リュミエール兄弟がカフェで世界初の映画を上映した時、汽車がこちらに向かってくるのを見て、観客が驚いて逃げようとしたり。
 
ちょっと眉唾物のこうしたエピソードが残っているのも、本物そっくりの偽物に対して驚くこと、その錯覚が、芸術作品の鑑賞の楽しみの一部に含まれていることを表しているように思えます。




錯覚の芸術で私が一番最初に思い浮かぶのは、本城直季の写真です。
 
俯瞰のパノラマ写真で捉えられるのは、プールや交差点といった都会の施設と、そこで活動する人々です。
 
細部まで丁寧に造られた建造物に、ちょっとピンぼけ気味だけど、細かい造形の分かる木々。現実のようにばらばらに細かく配置された人物のフィギュア。なんと精巧に出来たジオラマの写真かと感嘆してしまいます。
 

『small planet』より
© Naoki Honjo


しかし、その写真の真の衝撃は、これがジオラマ写真ではなく、現実の風景の航空写真だということです。
 
私は技術的なことはよく分かりませんが、よく見ると人物は一人一人異なっており、あまりにも細かすぎて、ジオラマでは制作不可能なことは確かに感じられます。
 
しかし、そう考えてもなお、建物や車の多くの質感が現実のイメージと違っていて、それらがミニチュアに見えてしまいます。
 

『small planet』より
© Naoki Honjo


私たちが普段堅固で精妙に造られていると思っている建物や機械が、実はペンキを塗っただけの、中が空洞のおもちゃに過ぎないのではないか、そんな思いすら浮かびます
 
あるいは、私たちの現代生活とは、俯瞰で観た時には、箱庭の世界でもあるのか。

そんな錯覚と同時に、その写真自体の、平明な色彩の美しさ、構図の良さ(俯瞰の切り取り方は結構難しいはずです)等で、私たちの眼に写真を見る喜びを与えてくれます。それが本城氏の作品が、ただのサプライズに終わらない、優れた美術作品であることを示しているのでしょう。




あるいは、深堀隆介の作品にも、似たような感触を覚えることがあります。
 
深堀氏の作品のモチーフは金魚です。升の中に入った金魚や、洗面器の中を泳ぐ金魚。勿論、動いてはおらず、立体美術のインスタレーション作品です。

 『金魚酒 命名 桂風』
©深堀隆介


過去の展覧会には、屋台の金魚すくいを再現したインスタレーションもあり、どこかノスタルジックで「和」を感じさせる、色鮮やかな金魚とそれを取り巻く情景の作品となっています。
 
しかしこれは、金魚の立体模型ではありません。精巧に描かれた、二次元の「金魚の絵」なのです。
 
透明樹脂に絵具で描き込み、また透明樹脂を重ねることで、あたかも立体の金魚の模型が水の中を泳いでいるような、独特な形態が生まれます。
 
近づいてよく見ると、確かに二次元の絵だということが分かるのですが、光に当たって水底にできる影も、殆ど三次元の金魚が泳いだ時に出来る影のように見えてきます。
 

『方舟2』
©深堀隆介


厚みのない絵がここまで三次元の質感を持ってしまうことに、私たちが普段手で触れて確かめている立体感とは何なのか、という考えも浮かんでしまう。それを、ノスタルジックな情緒の美の中で味わえるがゆえに、他には得難い美術作品となっています。




彼らの現代美術は、錯覚を利用したものではあるのですが、雪舟法師のネズミの絵と、少し方向性を変えているように思えます。
 
いわゆるハイパーリアリズムの、写真のような人物画や静物画は「本物に見えるけどこれは精緻に描かれたものです」という、錯覚芸術の伝統に沿ったものです。
 
本城氏や深堀氏の作品は、そこにひとひねり加えられています。偽物に見えた私たちの錯覚、これはジオラマだとか金魚の模型だという意識を、現実の写真、描かれた金魚の絵という事実で、更にひっくり返すのです。




もしかすると、私たちは「本物そっくりの偽物を本物と錯覚する」というか「あなたが本物だと思っていたものは偽物だ」と言われることが、快感なのかもしれません。
 
その極点に、いわゆる陰謀論があるわけですが、それは現代日本や「ポスト・トゥルース」時代だから増えているというわけではないでしょう。古今東西、私たちは、雪舟法師のお師匠様のように、初めて映画を観た観客のように、本物そっくりの偽物に感情を揺さぶられることを、心の奥底で求めているのかもしれない。
 

リュミエール兄弟『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895)
カフェで世界初の上映となった「映画」の一本


そんな中で、本城氏や深堀氏の作品は、私たちが「これは本物ではなく偽物」と思って安心していた、その意識すら、更に揺らぎを与えます。




あるいはそれは、真に優れた芸術に共通する感触なのかもしれません。
 
これはただの偽物に過ぎない。でも、何か違うものを感じる。それは現実を否定して裏の「真の現実」に誘うものではなく、私たちが「偽物」と考える認識を改める。そうすることで、現実への意識も変えてくれます。
 
優れた絵画であれ、フィクションであれ、偽物だからこそ到達できる思考や感覚が存在するということ。
 
世界は、現実や「嘘の背後の隠された真実」といった分かりやすい物語だけで出来ているわけではない。現実と、様々な認識のレンズを通した錯覚、秘密、夢想、こういったもので私たちの生は複雑に織り成されている。
 
そうしたことを教えてくれるのが、優れた芸術であり、私が芸術を愛する理由の一つでもあります。




現代美術が全てそういった意識を満たしているわけではありません。ただ、本城氏や深堀氏の作品は、優れた古典作品が備えていたような、現実への認識を変えることの、晴れやかな喜びと楽しさがあるように思えます。
 
是非、彼らの作品集や展覧会で、その喜びに満ちた美しさを味わっていただければ。そして、錯覚を味わうことの喜びを与えてくれる作品を、沢山見つけていただければ。それは、私たちの生をより豊かにしていくものだと思うのです。



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