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世界を広げる青春の音楽 -ベルリオーズ『幻想交響曲』の面白さ


 
 
【金曜日は音楽の日】
 
 
フランスの作曲家、ベルリオーズの『幻想交響曲』は、クラシックの中でも人気曲であり、一風変わった曲でもあります。
 
なかなかに派手で、滋味深いとはちょっと言い難い曲なのですが、色々と聞き込むと、面白い面が見えてくる曲だと思えます。




エクトル・ベルリオーズは、1803年フランス南部生まれ。医者の息子として生まれるも、音楽に興味を持ち、独学で音楽理論を身に付けます。

エクトル・ベルリオーズ


 
パリに出て医科大学に入学するも、医者への道を断念(解剖が苦手だったようです)。オペラや演奏会に通い詰め、パリ音楽院に進学して、本格的に音楽家への道へ。
 
ローマ賞へ挑戦するも、何度も落とされ、それでも旺盛に作曲活動を続けていきます。『幻想交響曲』は、1830年、27歳の、若さと気力が充実した時期の作品です。






この交響曲は、ベルリオーズが、女優ハリエット・スミスに失恋したことを基に、作曲されたものです。

全五楽章で、しかも、その全体内容を示すプログラムが、作曲者本人によって書かれています(ベルリオーズは、非常に筆が立ち、評論活動も積極的に行っています)。




まず、全体の流れについては、こう書いています。
 

病的な感受性と激しい想像力に富んだ若い音楽家が、恋の悩みによる絶望の発作からアヘンによる服毒自殺を図る。
 
麻酔薬の量は、死に至らしめるには足りず、彼は重苦しい眠りの中で一連の奇怪な幻想を見、その中で感覚、感情、記憶が、彼の病んだ脳の中に観念となって、そして音楽的な映像となって現われる。
 
愛する人その人が、一つの旋律となって、そしてあたかも固定観念のように現われ、そこかしこに見出され、聞こえてくる。


それぞれの楽章のプログラムを抜粋して見ていきましょう。




第1楽章は『夢、情熱』。


彼はまず、あの魂の病、あの情熱の熱病、あの憂鬱、あの喜びをわけもなく感じ、そして、彼が愛する彼女を見る・・


 穏やかな開始から、不穏さと高まりが交錯する、どこか不安定な音楽の始まりです。しかし、第1楽章は、何とか穏やかに、静かに終わります。




第2楽章は『舞踏会』 。


とある舞踏会の華やかなざわめきの中で、彼は再び愛する人に巡り会う


 細かな弦のうなりとハープと共に、華やかな舞踏会の雰囲気が醸し出されます。まさに、翻るドレスの様が目に浮かぶような、耽美的とまではいかない、全曲の中でも華やかな楽章です。




第3楽章は『野の風景』。


ある夏の夕べ、田園地帯で・・・牧歌の二重奏・・・日が沈む・・・遠くの雷鳴 


どこか気怠いオーボエの旋律から始まり、田園風景がオーケストラによって麗らかに歌われます。しかし、またオーボエのソロに戻ると、どこか不吉な予感を残して次の楽章へ。




第4楽章は「断頭台への行進」。


彼は夢の中で愛していた彼女を殺し、死刑を宣告され、断頭台へ引かれていく。行列は行進曲にあわせて前進し、その行進曲は時に暗く荒々しく、時に華やかに厳かになる・・・


どす黒い足音のような旋律から、トランペットの勇壮な軍隊風マーチが始まります。しかし、その高揚感はどこか刹那的で、くるくる変わって、威風堂々という感じではないのが、死への行程を表しているのでしょう。




第5楽章は『サバトの夢』。


彼はサバト(魔女の饗宴)に自分を見出す・・・


第4楽章の裏返しのように、グロテスクな舞踊と、強烈な鐘の音、細かく刻む弦に、馬のいななきのような木管と、次々に旋律が繋がっていきます。

やがて、高揚しているのに、崩れ落ちるようなフィナーレで、狂騒の宴は終わります。




私はこの作品は「魔改造された田園交響曲」だと思っています。
 
まず、ベートーヴェンの傑作と同様、5楽章形式。通常の交響曲の4楽章をはみ出しています。
 
第4楽章と第5楽章が、内容的に実質繋がっているところも同じ。

そして両作品共、作者本人によって、詩的なタイトルが付けられ、各楽章に内容を説明するプログラムがつけられている点も、他にはなかなか見出せない特徴でしょう。
 
また、第3楽章の田園風景には、ベートーヴェンの「田園」がこだましているように感じられます。


ベルリオーズは、ベートーヴェンに非常に影響を受け、『田園交響曲』を一楽章ごとに、熱烈に讃えた評論も残しています。
 
この破格の『幻想交響曲』は『田園交響曲』の枠組みを使いつつ、田園を真っ黒いコーティングで染めて、狂騒的で夢幻的に改造して、仕立て上げられたように思えるのです。




では、その改造は何によって行われたのか。
 
おそらく、それは外面と内面の二つの側面があります。
 
外面、つまり、物質的には、オーケストラの強化です。

片山杜秀と岡田暁生の両氏による対談『ごまかさないクラシック音楽』で、この作品は、フランス革命とかなり結びついていると指摘されていました。


 
つまり、軍隊の拡大による、吹奏楽の充実、管楽器の発明です(同時代では、サキソフォンで有名な発明家アドルフ・サックスが、奇妙な楽器を大量に作っていました)。

この金管楽器を含む大規模なパワーの音楽は、明らかに古典的なオーケストラではなく、近代の楽器を予めイメージして創られています。
 
曲調も、第4楽章は明らかに行進曲を模しているでしょう。現在のフランス国歌『ラ・マルセイユーズ』をはじめ、革命後の対外戦争で、こうしたタイプの軍歌・行進曲が山ほど作られています。




そして、内面、精神的な面では、まさにそのようなフランス革命後の不安定な社会、そして、それを背景としたエネルギーの高まりがあるように感じます。

『幻想交響曲』の大きな特徴は、高揚であれ悲嘆であれ、長続きしないということ。目まぐるしく曲調が変わり、一定の気分を味わったと思ったらすぐに場面が変わります。
 
不安定な社会と、その中から勃興するエネルギーを、捉えたという意味で、この作品は、青春の産物であり、失恋からの幻想というプログラムをつけたベルリオーズの戦略は的を射ていると思えます。
 
そんな革命と青春のエネルギーが横溢することで、この作品は古典的な形式を、どろっとはみ出る、革新的な作品になりました。




作曲家・指揮者のレナード・バーンスタインは、この曲を元祖サイケデリアと言ったそうですが、まさに、サイケデリックな雰囲気が横溢しています。
 
それは、ドラッグという意味ではなく、音像を歪め、知覚を広げることで、この世の外の光景を掴もうとする嗜好を持っているということです。
 
その意味で、『幻想交響曲』と、マーラーの交響曲第一番『巨人』、名ギタリスト、ジミ・ヘンドリックスのサイケ名盤『アクシス・ボールド・アズ・ラブ』を並べてみたくもなります。

時代も、国籍も全く違う音楽ですが、それぞれ、どこか青春を感じさせるとりとめのなさ、爽やかさを持ち、極彩色に染められた夢想が、この世の外の光景を見せてくれます。




私が『幻想交響曲』で好きな演奏は、シャルル・ミュンシュが1954年にボストン交響楽団を指揮したアルバムです。


 
ミュンシュというと、1967年のパリ交響楽団を指揮したパワフルな名演が有名ですが、この1954年版は、若さとキレがあります。

第2楽章は素晴らしく典雅。第4楽章以降も、颯爽と進み、それでいてパワーを感じさせて、フィナーレまで一気に聞かせます。
 
そこにあるのは、青春の若さが、眼に見える秩序の世界を、夢想によって広げていく際のパワーと、すがすがしさでもあるのでしょう。そんな風にこの曲を聴いてみると、新たな発見があるかもしれません。



今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。


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