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いにしえの聖杯 -『水霊の碁』後書きと新連載のお知らせ


 
 
先週『水霊の碁』全七話が完結しました。読んでくださったみなさま、本当にありがとうございます。

 


今日は、その拾遺と、来週以降の連載のお話などをしようかと思います。






『水霊の碁』後書き


『水霊の碁』は、江戸時代の5世本因坊道知についての物語です。改めてですが、作中の本因坊家に関する出来事や打たれた碁は、現実の歴史。石田策侑(弥之吉)や、島尾彦左衛門は私の創作です。
 
囲碁ファンの中では、道知の師匠、前半に出てきた4世本因坊道策が有名です。
 
彼の碁は碁盤の中央をフル活用した、現在の眼から見ても華麗で斬新な棋風で、歴代最強棋士とすら言える強さを誇りました(王貞治やベーブ・ルースが、現代野球の視点からでも、偉大な野球選手と言われるような感覚と、思っていただければ)。




その次の代の道知は、どこかクールな、びしばしと決めを打っていくような棋風です。美しいけど、妙に血が通っていないような印象を受けます。
 
例えば、道策の碁が、ミケランジェロの『最後の審判』のような極彩色の芸術だとしたら、道知の碁は、パルミジャニーノの『首の長い聖母』のような感じ。
 
クールで、マニエリスティックで、それでいて、何か異様な、熱を欠いたような美。そんなものを道知に感じるのです。


パルミジャニーノ『首の長い聖母』
ウフィツィ美術館蔵


 
そして、本編でも書きました、あの所業。
 
色々な意味で謎めいていた人物であり、私にとって気になる人物でした。




これは力を巡る物語でもあります。
 
初代の本因坊算砂は、織田信長から「名人」という称号を貰いました。
 
当時その言葉には、恐らく現代の言葉以上の重みがあったはずです。長く続く戦乱の世で、誰が力を手に入れて平和をもたらせるのか、という混沌の時代。
 
魔法のように、どんな相手をも打ち負かす、囲碁の名手は、まさに「力」の持ち主です。

「名人」という称号は、この世の全ての力を集約する「聖杯」のようなものだったでしょう。それを手に入れられれば、望みが叶い、争いがなくなるという象徴。
 
最強の名人碁所、道策は、そうした力のあり所をよく分かっていたように思えます。


サッカー欧州チャンピオンズリーグ決勝の表彰式
現代では、最も力を持つ者に与えられる
トロフィーに「聖杯」の名残がある




道策が碁打ちを志したのは、四代将軍徳川家綱の若き時代。凡そ西暦1650年代後半であり、まだ戦国の争乱の世から、50年程しか経っていません。

50年というと一昔前のように思えますが、周囲の老人には、実際に幼い頃に戦乱の嵐の中を生き抜いた者がいたはずです。
 
過去であっても生々しい血の匂いが彼らにはこびりついており、幼い道策にも感じ取れたでしょう。

昭和の末期生まれの私が、1945年に終結した太平洋戦争を教科書でしか知らなくても、実際に戦争を経験した老人と同じ空気を吸い、言葉を聞くことで、少年時代に微かにその記憶の重みを感じられたように。
 
ましてや、当時は島原の乱や由井正雪の変等、幕府を転覆させようとする動きがあり、まだ人々の心中には、下剋上と戦乱の世の残響がこだましていたはずです。
 
そうした時代の空気の中だからこそ、流血と阿鼻叫喚の乱世を治め、太平を導いた覇者によって与えられた「名人」が、聖杯のような力の源泉としての意味を持ちます。




道策は、師の道悦を助けて、安井家から名人を奪うと、自分が就任。
 
聖杯を手にした後は、名人の権威を高め、弟子の桑原道節には、井上家を継がせ、安井家の対抗馬とする。そして、夭逝はしたものの、優秀な弟子を沢山育てる。
 
まさに、戦乱と混沌を治める聖杯の力の活かし方を、よく分かっていたように思えます。




しかし、平和な江戸の世に生まれ、本来柔和な性質の道知には、そうした考えがあまりなかったように見えます。
 
文中にも書きましたが、『忠臣蔵』の元となった赤穂事件が、道知の当主就任直後に起きています。それが、幕府を覆そうとするエネルギーの発露でなく、乱暴に言えば、権力の下の小競り合いだというところに、時代の空気感があります。
 
そして、聖杯の力が薄れるに従って、勝負事としての意味も薄れ、碁の芸自体も弛緩していく。
 
これが江戸末期になると、またこの名人碁所を巡って、暗躍と争いの歴史になり、囲碁の芸も進化します。

やはり、公平な立場での真剣勝負こそが、人間や芸術を育てるのだと、改めて感じるところです。




最後は、ぶつ切れのような唐突なラストになりましたが、これも史実に基づくもの。ここはそのままにいきたいと思いました。
 
エピローグは個人的に気に入っています。お互いに別れて会わなくなった二人が、どんな関係だったか、どんな絆を持っていたのか。言葉で語るより、物が雄弁に語ることがあるはず、と思っています。
 
力に翻弄された少年たちが大人になり、苦い思いを持って振り返る、それでも、やはり彼らの中に友情と愛情があってほしい、と思って書いた作品です。楽しんでいただけましたら幸いです。




新連載のお知らせ


 
 
さて、来週の土曜からは、新しく連載を始めたいと思います。
 
タイトルは『幻影堂書店にて』。
 
舞台は、時空の狭間の、架空の古本屋であり骨董品店。

少年とお店の少女が、毎回、お店にある架空の芸術作品について語り合います。
 
私は普段は、現実にある芸術作品について書いているわけですが、ここでは、現実にある程度即しつつも、現実にはありえなかった、あるはずだった作品について、想像の翼を広げて、書いてみたいと思います。
 
毎回色々と芸術やエンタメについて書いていて、あり得たかもしれない空想の中にも、私が好きな何かが含まれているのではないか、そこに言葉で形を与えたい、と思うようになったのが、きっかけです。
 
その意味では、これもまた、現実の背後にある、ある種の聖杯の力についての物語、とも言えるかもしれません。




メインキャラは一貫しているけど、毎回一話完結の、「ドラえもん方式」です。なので、どの回から読んでも楽しめるものになると思います。
 
短編連載だと一回が長くなりましたが、この連載は毎回一作品について取り上げるので、日々のエッセイとほぼ同じ分量になります。
 
火曜は『スナップショット』、土曜は『幻影堂書店にて』というのが創作の予定です。楽しんでいただけますと幸いです。改めて、今後もよろしくお願いします。




■『水霊の碁』リンク集

※第1話

※第2話

※第3話

※第4話

※第5話

※第6話

※第7話




今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回の作品・エッセイでまたお会いしましょう。


こちらでは、文学・音楽・絵画・映画といった芸術に関するエッセイや批評、創作を、日々更新しています。過去の記事は、各マガジンからご覧いただけます。

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